2012/09/02

日垣隆氏による兄弟(弟)についての記述・発言一覧

日垣隆氏は弟を亡くしている。このことは、以下に挙げるように日垣氏本人により繰り返し触れられている。ただし、日垣氏の記述は当初、弟は「事故」で亡くなったとされていたのだが、次第にその記述は「殺され」「犯罪」「他殺」と変化していった。以下に弟についての記述を中心に、兄弟についての記述を時系列に沿って並べる。

日垣隆氏本人による著作内での記述
1990年

閉ざされた回路―神戸「校門圧死」事件の深層(ルポルタージュ)
http://opac.ndl.go.jp/articleid/3355464/jpn
世界(岩波書店)1990年10月号 329~346ページより

 彼は、罪を背負わねばならない。過去を断ち切るために、あがかねばならないだろう。次第に、マスコミも世間も、時の経過とともに忘れてくれるだろう。だが遺族は、生涯、決して忘れることはない。十数年前の学校事故で、十三歳でしかなかったわが弟の命を奪われた僕自身の体験からも、それは言えることだ。
1992年

家族と人生への考現学―分裂病の兄よ,逝ってしまった弟よ(変容を解く-22-)
http://opac.ndl.go.jp/articleid/3434268/jpn
エコノミスト(毎日新聞社)1992年3月17日号 82~87ページより

 今でも、悪夢で、飛び起きることがある。それには二つのパターンがある。
 中学時代の僕が、夕食の準備をしている。当時にあっては珍しいことに、両親と兄が外出しており、弟との二人分の食事のため、僕が腕をふるっているのだった。二人は、いつも一緒だった。今から思えば幼稚なことに、寝る時まで手をつないでいた。その翌日、弟以外の家族が揃って談笑しているところへ、ある報せがもたらされる。
 僕は、そこで飛び起きるのだ。
 悪夢である。が、実際に起こったことだ。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。
 弟は三日間、生死をさまよった。医師は、仮死状態で意識不明だといった。
僕ら二人がずっと従者をつとめていたイタリア人神父が、病室に駆けつけてくれた。その神父が、ルルドの聖水を弟の体にかけた、その時、昏睡状態であった弟が、僕の手をしっかりと握った。そして母の手をとった。「わかるよ、わかる。僕は死にたくないんだよ」と弟は言った。それが最期だった。
 僕が心底から神に祈ったのも、それが最後になった。
(中略)
 それから二ヵ月がたったころ、僕は父に連れられて教育委員会を訪ねた。教員であった父は、その教育長とは旧知の間柄であったらしく、形式的には弟の件で報告と挨拶に立ち寄ったのであったのだが、半時間ほどあれこれの会話が交わされていた。一五歳には退屈な大人たちの会話が途切れるのを待つ間、僕は教育長の机の上にあった、弟の事故報告書を手にとってめくり始めていたのだった。
 それまで、教師たちから、事故に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接、耳にしていた。小さな中学校だったから、弟と僕の教え手はほとんど重複していたのである。だが、教育委員会に提出された報告書に書かれてあった内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていた。死亡事故の原因が、すべて弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知表までもが見事に改竄されていたのだった。 僕は父に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。そればかりではない。おそらく、教員であった父が、教育行政と同業者を訴えることになったその経過の中で、心身ともに傷ついていったに違いない。悲しみあえぐ家族にあって、一人たしかに凛々しかった父が、イタリア人神父の胸を借りて号泣していたのだと聞いたのは、ずっと後になってからである。父がそんな心労から、脳溢血で倒れたのは僕が大学に進学してからのことだった。

もう一つの悪夢は、僕が高校三年生の冬に起きた、ある出来事にかかわっている。兄は二浪していたから、大学受験が僕と重なってしまった。三年前の弟の事件は、家族の誰しもが胸に押し抱えながら、そのことを口に出すのは控え続けてきた、そんなある日のことだ。裁判のかたがついていただけに逆に、言い知れぬ理不尽さが、家族それぞれに襲いかかっていた。
 雪の降る真夜中のことだった。すでに就寝していた僕は、兄に起こされた。「隠しカメラがある!」と兄は叫んでいた。自分は天皇の子なのだ、とも言った。
 悪夢だ。が、これも現実に十五年前、実際に起きてしまったことだ。

<ルポ>高校ってなんだ(岩波書店, 1992/5/18)
http://www.amazon.co.jp/dp/4000024647
36ページ(初版)より

 彼は、罪を背負わねばならない。過去を断ち切るために、あがかねばならないだろう。次第に、マスコミも世間も、時の経過とともに忘れ始めてはくれるだろう。だが遺族は、生涯、決して忘れることはない。十数年前の学校事故で、十三歳でしかなかったわが弟の命を奪われた僕自身の体験からも、それは言えることだ。

(注:青字部分は初出(「世界」1990年10月号)から改訂された箇所である)

日本人が変わった――ふくらんだ泡が弾けて(毎日新聞, 1992/8)
http://www.amazon.co.jp/dp/462030882X
203~205ページ(刷数不明。1992/8/20発行) 分裂病の兄よ、逝ってしまった弟よ より

(注:初出(「エコノミスト」1992年3月17日号)から記述に変更なし)

1993年

<検証>大学の現在-8完-「学歴社会」異論
http://opac.ndl.go.jp/articleid/3517268/jpn
世界(岩波書店) 1993年10月号 144ページより

私は中学三年で大好きだった弟を学校事故で失い、大学受験を控えた高校三年のとき、同時受験をすることになった浪人中の兄が、弟の事故の顛末に耐えかねていたこともあって、分裂病をきたしていまなお入院したままだ。はっきりいってしまえば、学歴の諸問題など、死に比べたら何ほどのものではない、と考えているふしが私にはある。

1994年

<検証>大学の冒険 (岩波書店, 1994/1/27)
http://www.amazon.co.jp/dp/4000012797
260ページ(第1刷) 第八章 「学歴社会」異論 より

(注:初出(「世界」1993年10月号 )から記述に変更なし)

1995年

敢闘言
http://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&current_base=NDL01&doc_number=011686382
エコノミスト(毎日新聞社) 1995年1月10日号 11ページより

 私は中学三年生のとき二つ下の弟を学校事故で失い、以来、正直に告白すれば、弟を殺したに等しい教師たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上がかかった。
 成人してから大病を患い、薬の副作用なのか寝小便をたれ、私は真剣に自死を思ったことがある。そのさい防波堤になってくれた二人がいる。
(略)
もう一人は亡き弟である。子どもに先立たれた親を間近に見て、これほどの親不孝はないと肝に銘じざるをえなかった。この体験を私は一度だけ文章にしたことがあり、『日本人が変わった』(毎日新聞社)に収録されている。
(略)
事故発生時だけ学校バッシングに励むのは、子どもの管理強化に手を貸す道なのだ。

1996年

六法よりも奇なり
Ronza(朝日新聞社) 1996年4月号 144ページ より

 私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の事故や、その弟の学事故を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

1997年

敢闘言
http://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&current_base=NDL01&doc_number=011644435
エコノミスト(毎日新聞社) 1997年7月15日号 11ページより

他人様はどうだか知らないが、少なくとも私は殺意を抱いた瞬間が何度かあるし、中三の夏、弟を殺した教師たちへの復讐を実行しても二年くらいで出てこれるのではないかと考えたこともある。

情報の技術(朝日新聞社, 1997/10)
http://www.amazon.co.jp/dp/4022571837
225~226ページ(第1刷) 第14章 六法よりも奇なり より

(注:初出(「Ronza」1996年4月号 )から記述に変更なし)

1998年

暴発―長野・少年リンチ殺事件全記録(5)誹謗中傷…遺族が背負う「さらなる苦悩」
http://opac.ndl.go.jp/articleid/4483343/jpn
現代(講談社) 1998年7月号 324ページより

中学生だった私の弟が殺されてから、もう二十年以上が経とうとしているのに、いまだ癒されない自分を、そこに発見して愕然としたのである。

子供が大事!(信濃毎日新聞社 , 1998/11)
http://www.amazon.co.jp/dp/4784098216
14~18ページ 第1話 兄よ、弟よ より

 悪夢である。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちに、命を奪われたのである。
(中略)
 それから二ヵ月がたったころ、僕は父に連れられて教育委員会を訪ねた。高校教師であった父は、その教育長とは旧知の間柄であったらしく、形式的には弟の件で報告と挨拶に立ち寄ったのだった。半時間ほどあれこれの会話が交わされていた。一五歳には退屈な大人たちの会話が途切れるのを待つあいだ、僕は教育長の机の上にあった、弟の事故報告書を手にとってめくり始めていたのだった。
 それまで、教師たちから、致死事件に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接耳にしていた。だが、教育委員会に提出された報告書に明記されていた内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていたのである死亡の原因が捏造され、なんと弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知までもが見事に改竄されていたのだった。不注意な生徒というイメージをもたせるために、報告書のうえで成績を落とすことが彼らには必要だったのだろう。
 その場で僕は父と教育長に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。

(注:この章は『分裂病の兄よ,逝ってしまった弟よ』を加筆・改訂し、章ごとにタイトルをつけたものである。下線部分が改訂されている。主な改訂箇所を次に挙げる。

  • 「教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。」
    →「教師たちに、命を奪われたのである。」
  • 「事故」→「致死事件」
  • 「死亡事故の原因が、すべて弟の不注意に帰せられていたばかりか、」
    →「死亡の原因が捏造され、なんと弟の不注意に帰せられていたばかりか、」
  • 「不注意な生徒というイメージをもたせるために、報告書のうえで成績を落とすことが彼らには必要だったのだろう。」という記述の追加
  • 「僕は父に、そのことを告げた。」→「その場で僕は父と教育長に、そのことを告げた。」)

酒鬼薔薇世代をどう描くか
(国立国会図書館 資料貼付ID:1200206017471)
VERDAD(ベストブック) 1998年12月号 33ページより

でも熟考のすえ今年十一月の末に、『子供が大事!』(信濃毎日新聞社刊)という本を出すことにした。メジャーな版元ではないので、八千部しか初刷りはないが――。
(中略)
第一章は、私が十五歳のとき仲の良い弟を殺されたことと、兄が発狂し、家族が崩壊していくその顛末を書いた。

1999年

敢闘言―さらば偽善者たち(太田出版, 1999/5)
http://www.amazon.co.jp/dp/4872334647

55ページ(初版)第2章 裁かれぬ殺人者たち 付記 より

他方、私の実弟は、刑法上の無能力者に殺されている。そのことは、別のところで最近になって初めて書くことができた(近刊『暴発』講談社)。

(注:『暴発』は『少年リンチ殺人』として出版される。月刊『現代』での『暴発』という連載記事をまとめたものが『少年リンチ殺人』である)

143ページ(初版)1995.1.10 命を奪われない限りにおいて より

 私は中学三年生のとき二つ下の弟を殺され、以来、正直に告白すれば、弟を殺した者たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上かかった。
 成人してから大病を患い、薬の副作用なのか寝小便をたれ、私は真剣に自死を思ったことがある。そのさい防波堤になってくれた二人がいる。
(略)
もう一人は亡き弟である。子どもに先立たれた親を間近に見て、これほどの親不孝はないと肝に銘じざるをえなかった。この体験を私は一度だけ文章にしたことがあり、『日本人が変わった』(毎日新聞社)に収録されている。
(略)
事故発生時だけ学校バッシングに励むのは、子どもの管理強化に手を貸す道なのだ。

(注:下線部初出(「エコノミスト」1995.1.10)から改訂された箇所である。「学校事故で失い」→「殺され」、「弟を殺したに等しい教師たち」→「弟を殺した者たち」と改訂されている)

267ページ(初版)1997.7.15 人は残虐な一面をもっている より

他人様はどうだか知らないが、少なくとも私は殺意を抱いた瞬間が何度かあるし、中三の夏、弟を殺した者たちへの復讐を実行しても二年程度で出でこれるのではないかと考えたことも実際ある。

(注:「出でこれる」は原文ママ。なお、初出(「エコノミスト」1997年7月15日号)時には「弟を殺した教師たち」という記述だったがここで「弟を殺したたち」と改訂されている)

300ページ(初版)1998.3.31 B級ニュースを味わう より

この四十六歳の男性はトレーナー姿だったという。足かけ三日間、一度も寝ることもなかったらしい。これら情況証拠と、私の身近な体験からして、この人は禁止だらけの精神病棟に帰ることになるのだろうと直感する。ファミレスでの制限のない飲食は、至福のときだったに違いない。
……………………………………
この四十六歳の男性は、二日間の勾留ののち、検察庁の判断で不起訴となったが、精神病院に措置入院させられた。文中「身近な体験」とあるのは、私のかつての家族を含んでいる。

少年リンチ殺人―「ムカつくから、やっただけ」(講談社, 1999/7)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062097923

222ページ(第1刷) 第五章 終わりなき喪 当事者 より

中学生だった私の弟が殺されてから、もう二十年以上が経とうとしているのに、いまだ癒されない自分を、そこに発見して愕然としたのである。

(注:初出(「現代」1998年7月号 )から記述に変更なし)

231~232ページ(第1刷) 終章 知られざるまま 弟 より

 自宅に帰って私は、六法全書をひもとき少年法のページに目をとめた。かつて私は、この法律に理不尽を感じて大学は法学部を選んだのである。
 私の弟は、十三歳でその命を閉じた。両親は、教師たちの過失による「事故」だと、今でも信じようとしているのだが、うすうす気がついているのではないか、と私は感じている。弟と私は同じ中学に同時に在籍していたから、「事故死」のあと、後輩たち(弟の同級生や同学年生)に事情を詳しく聞くことができた。裁判が始まったのは、私が高校に進学して間もなくだった。だがそこには、最も裁かれるべき者が欠けていた。弟を直接、四メートルもある除雪溝に突き落として絶命させたのは当時十三歳の少年だ、という事実を私は直接本人からも、そこに居合わせた者たちからも聞いていた。
 相手は、刑法(第四十一条 十四歳に満たない者の行為は、罰しない)および少年法に基づき、取り調べさえ受けなかった。最初から「なかったこと」にされた。だから、私たち遺された家族の怒りは、そのような理不尽な状況に追いやった教師たちに向けられてきた。
 私はいつか必ず、弟の事件に関する裁判記録を熟読しようと思ってきた。最初は父が、その作業にあたろうとしていたのだが、精神的にまいってしまうほうが先だった。私に全資料をバトンタッチした。しかし、そのようにして家族を失った事件の詳細に踏み込むことは、第三者でないかぎり絶対に堪え難いことだと私は思うのである。だが、本当のことを知りたい、という遺族の思いはけっして小さくなることはない。この二律背反が、いっそう夜明けを遠ざける。
 この本を書くために、とりわけ第五章の末尾を書くために、私は今こそ弟の事件に関する全資料をひもとこう、と決意したのだが果たせなかった。二十数年が経っているのに、精神的に変調をきたしてしまうのである。殺した相手が事件のことすら忘れてのうのうと生きているのだ、過去の詳細から逃げる権利くらい私たちにだってあるようにも思える。
著者略歴(第1刷)より
被害者の母親の慟哭に接したことに始まる「少年リンチ殺人」の取材は、かつて十三歳で殺された、著者自身の実弟とその加害者に、再び思いをめぐらす旅でもあった。

「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか(北大路書房, 1999/12)
http://www.amazon.co.jp/dp/4762821624

43~44ページ(初版第1刷) <ルポ>高校って何だ 第一章 閉ざされた回路 より

 彼は、罪を背負わねばならない。過去を断ち切るために、あがかねばならないだろう。次第に、マスコミも世間も、時の経過とともに忘れ始めてはくれるだろう。だが遺族は、生涯、決して忘れることはない。十数年前の学校事故で、十三歳でしかなかったわが弟の命を奪われた僕自身の体験からも、それは言えることだ。

259ページ(初版第1刷) <検証>大学の冒険 第八章 「学歴社会」異論 より

私は中学三年で大好きだった弟を学校事故で失い、大学受験を控えた高校三年のとき、同時受験をすることになった浪人中の兄が、弟の事故の顛末に耐えかねていたこともあって、分裂病をきたしていまなお入院したままだ。はっきりいってしまえば、学歴の諸問題など、死に比べたら何ほどのものではない、と考えているふしが私にはある。

(注:当該書籍は1992年『<ルポ>高校ってなんだ』と1994年『<検証>大学の冒険』の合本である)
2000年

激論!どうにかならんか「少年法」
http://opac.ndl.go.jp/articleid/5366711/jpn
サンデー毎日(毎日新聞社) 2000年6月25日号 148ページより

日垣 二十数年前に当時中学1年生だった自分の弟が殺されたのですが、14歳未満の者は刑法による罰を受けないということに関して、じゃあ弟は誰に殺されたんだという思いがずっとありました。

偽善系(文藝春秋, 2000/9)
http://www.amazon.co.jp/dp/4163566007/
86ページ(第5刷 2000年11月20日)第三章 少年にも死刑を より

 私は『少年リンチ殺人』(講談社、九九年)という本のあとがきに一度だけ書き、もうあまり思い出したくもないので詳しく触れることは避けたいのだが、同じ中学に通っていた仲のいい弟を何の意味もなく殺され、直接手を下した者が十三歳だったため、少年院はおろか教護院(教護院に処遇するためには犯人である少年の親の同意が必要なのである)にすら入ることなく、翌日から中学に登校してきた。彼は周囲には何も知られず、いつもどおり笑っていた。顔が引きつったのは、兄である私と廊下ですれ違うときくらいだった。これが少年法にいう更生なのか。まるで犯罪そのものが存在しないかのようであり、教師たちはその事実を隠しとおし、あたかも弟は勝手に事故でも起こして消失したかのような扱いを受け続けた。

(注:『少年リンチ殺人』に弟についての記述があるのは「あとがき」ではなく「第五章」と「終章」である。「あとがき」には弟についての記述はない)

著者と60分 日垣隆 偽善系
http://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&doc_number=011067418
週刊文春(文藝春秋) 2000年9月28日号 153ページより

 日垣さんは少年法の問題だけでも二十五年にわたって、自分の問題として考えてきた。きっかけは、実弟が、同じ中学校に通っていた十三歳の少年に殺された事件である。驚いたのは、翌日からその少年がいつも通り登校をしたことであった。十三歳ゆえ殺人行為を誰にも知られず、犯罪さえもなかったかのように処理された。
「殺した奴がいないのに、殺された者がいる。弟は勝手に死んだことになったのです」
 だから少年法は次のように変えるべきだという。

(注:これは西所正道氏によるインタビュー記事である)

マスコミも、これまで被害者を無視してきたことを反省しなくてはならない
http://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&doc_number=011075051
SAPIO(小学館) 2000年12月6日号 47ページより

身内のことはあまり書きたくなかったのですが、僕自身も、13歳の弟を殺された体験があることは、別に隠すべきことではないと思っています。最近、法廷で実際起こった事件のように、被害者の家族が加害者に対して殴り掛かったり、殺してやりたいと思うこともあるでしょう。私もそう思っていた。

婦人公論井戸端会議 犯罪被害者を支えるために
http://opac.ndl.go.jp/articleid/5565031/jpn
婦人公論(中央公論新社) 2000年12月7日号 177ページより

田丸 改正といえば少年法ですが、少年法に関して日垣さんは、本でもお書きになっていますが、ご自分の弟さんが十三歳の同じ学校に通う同級生に殺された経験があって、それ以来、二十年以上考えていらっしゃるということですよね。
日垣 ええ。あまりにもひどすぎると思ったのは、こっちは弟の葬式をやるのに学校を一週間も休んでいるのに、加害者の方は犯行の翌日から学校に行って、ニコニコしているわけですよ。
田丸 警察の取り調べもないんですか。
日垣 ないですよ。つまり、加害者は十三歳なので、少年法にも刑法にもひっかかりません。親が同意しなければ教護院にも行かなくてすむわけです。僕はそのとき中学三年生だったのですが、少年法を読んで、本当にびっくりしました。

2001年

情報系 これがニュースだ(文春文庫, 2001/3)
http://www.amazon.co.jp/dp/4167655012/

266ページ(第1刷) 第14章 六法よりも奇なり 不渡り より

 私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の死や、その事件を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

(注:当該書籍は1997年『情報の技術』を改題・文庫化したものである。なお、この引用部は『情報の技術』から記述が変わっており、「弟の事故死」→「弟の死」、「事故」→「事件」と改訂されている)
516~517ページ(第1刷) 解説 より
 ある本に付された著者プロフィールには、こうある。
《作家、ジャーナリスト。1958年、長野県生まれ。中3で弟を殺され、高3のとき兄が分裂病に、家族は崩壊する。東北大学法学部在学中に学生結婚。卒業直前に大病を患い、体重が減ったほかは奇跡的に快復。あとはオマケの人生と腹をくくる。販売員、書店員、配送係、歩合のセールスマン、出版社の営業兼コンピュータ担当兼編集を経て、87年に独立。
 29歳で処女作『されど、わが祖国』を上梓、その後の主な著書として、『大学の冒険』『「松代大本営」の真実』『ご就職』『学問のヒント』『子どもが大事!』『少年リンチ殺人』など。軟派小説、悲喜劇番組の企画、ラジオ番組のパーソナリティも務める。死にかけたのは総計三回、失業も三回、うち倒産が一回。》
 部分的なプロフィールにすぎないのだが、読み手によっては、えらいこっちゃと思う方もおられるかもしれない。これは編集者の手によってピックアップされたものだ。本人が書いた単行本を読めば、以上のような”経歴”を摘出することは比較的容易である。つまり彼は、全然有名でないくせに、よく自分を語っているということになる。

(注:当該書籍は1997年『情報の技術』を改題・文庫化したものである。引用した解説部分は日垣氏自身によって書かれたものである)

サイエンス・サイトーク いのちを守る安全学(新潮OH!文庫, 2001/03)
http://www.amazon.co.jp/dp/4102900802

21~23ページ(刷数不明 2001年3月10日発行)より

日垣 美しい話にも見えますが、あえてきつい言い方をすると、自分の子どもが殺されたときに思い切り泣けずに、いつ泣くのかっていう無念な気もします。私の父母が弟(父親にとっては息子)を喪ったときもそうでした。号泣してくれたほうが、お互いどんなに楽だったか。
(中略)
 先ほどちょっと触れたように私自身も中学生だった弟を殺されています。同じ中学に通っていましたから、何が起きたかということはよく知っているのですけれど、相手が(刑法や少年法でも罪を問えない)十三歳でしたから、何もなかったこと(あたかも勝手に死んだよう)になって、結局それからずっと、そのことをどういうふうに総括していいか不明のままです。

26ページ(刷数不明 2001年3月10日発行)より

日垣 うちの母親もそうでした。私の弟が、布団の上ではなく、コンクリートに頭を打ちつけられて意識を失っていったことを思うと、そういう感情が湧き出てしまうのでしょう。

36~37ページ(刷数不明 2001年3月10日発行)より

日垣 あの、ちょっと自分のことで今思い出したことがあります。弟が殺されて結局“学校事故”っていうことで処理されたのですけど、葬式などがあって十日間くらいしてから、ようやく僕は学校に行くんですね。クラスメートも、どうやって声をかけていいのかわからなかったみたい。十日ぶりで登校した日に、確率統計に関する数学の授業があって、教科担任は一人ずつ順番に兄弟姉妹の数をいわせたんですよ、全員にね。「三人です」とか「一人です」とかって答えさせていく。その数学の先生は、十日前に俺の弟が殺されていることは百も二百も承知なわけです。承知しているどころか、弟の事件で教育委員会へ虚偽の報告をしていた責任者が、まさにその数学の担任だった。俺としてはそいつの顔を見ながら授業を受けているだけで、十年分のエネルギーを使い果たしているって感じです。僕は四人兄弟だったのですが、十日前に弟が殺されている。順番が近づくにつれ、教室から逃げ出せないかって。汗もびっしょりかいちゃって。でも、順番が回ってきた。俺のなかでは立派に弟は生きていたので「四人です」って答えたら、「お前のとこ、三人になったじゃないか」って、その数学の先生にいわれて、ちょっと僕はそれからしばらく放心状態になってしまった時期がありました。毎朝、親が悲しむから家は出るんだけど、繁華街のゲームセンターかなんかに本物の悪友と行ってました。本当のことをいうと、今でも親しいその悪友が気を紛らわせてくれたおかげで、犯人や教師を殺さずに済んだんですけどね。
 クラスメートはクラスメートで、生徒会の呼びかけかなんかあったらしくて、亡くなった弟のために、カンパをやるなんていってくれたのはまあいいとして、全然集まらない。せいぜい何百円とか入ったまま、カンパ袋が学校中にヒラヒラ揺れているわけ。今でも夢に見ますよ。

小西 今のお話で、しばらく言葉を失っておりました。

日垣 小西さんの言葉に触発されて思い出しただけなんですよ。

死の準備(新書y, 2001/7)
http://www.amazon.co.jp/dp/489691547X
141ページ(初版 2001/7/21発行) より

これが最後になるかもしれない――。
そう思ったのは、十五歳のときだ。二歳下の弟が殺され、突然、帰らぬ人となった。その前夜、珍しく他の家族が外出していた。弟と俺が二人で料理をつくり、それが最後の晩餐になってしまった。本当にお恥ずかしい話だが、あれ以来、俺は料理をまともに作れない。君たちから誘われてのトランプ・ゲームを断ったことがほとんどないのも、あのとき、弟に誘われて「明日にしよう」と言ってしまって以来のことだ。
 トラウマというほどのものではない。いつでも克服できるし、未だに何かを恐れているわけでもない。だが、弟を殺した者たちに対する殺意は、ごく最近まで非常に強烈にあった。
(中略)
 さて、ここで「伯父さん」の話に戻す。二〇歳の冬の火事より二年前、弟が殺されて三年後のの真夜中、兄が発狂した。
「隠しカメラがある!」
 兄はそう叫び、俺を起こした。
「僕は天皇の隠し子だよね」と何度も確認をし、弟である十八歳の俺は比較的冷静に両親への報告をしにいった。翌日から兄は閉鎖病棟に入院し、それは四半世紀が経った今も基本的に変わらない。

2002年

敢闘言―さらば偽善者たち(文春文庫, 2002/4)

129ページ(第1刷)1995.1.10 命を奪われない限りにおいて より

 私は中学三年生のとき二つ下の弟を殺され、以来、正直に告白すれば、弟を殺した者たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上かかった。
 成人してから大病を患い、薬の副作用なのか寝小便をたれ、私は真剣に自死を思ったことがある。そのさい防波堤になってくれた二人がいる。
(略)
もう一人は亡き弟である。子どもに先立たれた親を間近に見て、これほどの親不孝はないと肝に銘じざるをえなかった。この体験を私は一度だけ文章にしたことがあり、『日本人が変わった』(毎日新聞社)に収録されている。
(略)
事故発生時だけ学校バッシングに励むのは、子どもの管理強化に手を貸す道なのだ。

(注:1999年『敢闘言』(単行本)から記述に変化なし)

300ページ(第1刷)1997.7.15 人は残虐な一面をもっている より

他人様はどうだか知らないが、少なくとも私は殺意を抱いた瞬間が何度かあるし、中三の夏、弟を殺した者たちへの復讐を実行しても二年程度で出これるのではないかと考えたことも実際ある。

(注:1999年『敢闘言』(単行本)から青字部分の誤字が修正されている)

2003年
飯田高等学校生徒刺殺事件検証委員会 教育関係者との懇談会 会議録要旨(2003/3/25)
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/koko/goannai/shingikai/iinkai-shuryo/jiken/documents/giji11-1.pdf
2ページより
日垣委員
日垣隆といいます。ジャーナリストをしています。家族は長野県に住んでおりまして、県内の高校から大学に進学している娘と、今年高校を卒業し大学に入学する子と、中学を卒業して高校に入学する末子がいる父親でもあります。また私自身、中学生の時、学校事故で弟を亡くした体験を持っています。ですから教育問題や学校事故の問題については、とりわけ関心を持って取り組んで参りました。親としては、学力を付けるとか、部活を頑張って欲しいとか思う以上に、学校で安全に過ごして欲しいと考えています。この委員会には被害者である小野寺さん、そして教育委員会からも委員が加わると聞き、私も委員となる決心をいたしました。宜しくお願いいたします。

そして殺人者は野に放たれる(新潮社, 2003/12/17)
http://www.amazon.co.jp/dp/4104648019/
251ページ(刷数不明。2003/12/20発行) あとがき より

 私の弟は理不尽に殺され、兄は長く精神分裂病に罹患したままです。もちろん、こうした経験があったからこの本がかけた、ということはないと思います。
 ただ一〇年ほど前、「入院仲間がときどき人を殺したくなると言っている」と兄が私に話してくれたことがあり、そのとき、ああこの問題から逃げてはいけない、と自覚したのは確かです。
 犯罪や事故で遺族になった体験は、少なくとも、あらゆる事件取材を通じて被害者の存在を無視しない、という厳格な縛りをもたらしてくれたことだけは疑いありません。これは当然もつべき視点ではありますが、これまで日本の書き手は、ノンフィクションでもフィクションでも、ひたすら犯人側の「動機」に寄り添うのが常で、被害者や遺族に襲いかかる喪失感や理不尽さを描くことは、まずありませんでした。

 加えて一面的な”人権”意識から、この問題を安易にタブー視してしまうという悪循環が、これまで日本のマスコミ界にあったように思います。被害者遺族としての実体験と、身内に精神障害者がいる、という二つの事実を、私の中で何とか統一できたらと願いながら長い調査と取材を続けてきました。
2006年

急がば疑え!(日本実業出版社, 2006/1/31)
http://www.amazon.co.jp/dp/4534040245

66ページ(初版) 犬とネコを飼う より

 中学時代、私の弟が殺されたとき、母も仔犬をもらってきた。

188ページ(初版) 携帯と犯罪と道草 より

もちろん、子どもの命が突然奪われることほど切ない事件はない。最近、私は父を喪ったが、順番どおりなので動じなかった。けれども、13歳の弟を殺された喪失感は、今でもまったく薄れることはない。

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫, 2006/10)
http://www.amazon.co.jp/dp/4101300518/
301~302ページ(3刷) あとがき より

(注:2003年『そして殺人者は野に放たれる』から記述に変更なし)

2007年

個人的な愛国心(角川書店, 2007/01)
http://www.amazon.co.jp/dp/4047100803
122ページ(初版)より

私の弟は一三歳で殺され、兄は二〇歳から精神病をわずらい今も入院を続けている。兄弟喧嘩など、したくても、できない。

誤謬 ウツ病患者諸兄、「空気を読む」のを止めて「空気を抜こう」
http://opac.ndl.go.jp/articleid/8947680/jpn
SAPIO(小学館) 2007年10月24日号 72ページより

 初めてウツ病の発症を身近で見たのは、父である。私が高校1年生だったから、いま指折り数えてみると、そのころの父は現在の私と同い年だ。その1年前、次男(私にとっては弟)が他人に殺され、帰らぬ人となった。
 何の罪もない中学生が突然殺される。それほど理不尽なことはない。ウツにならないほうがどうかしている。

(注:弟のことを「次男」としているが、日垣氏には兄がいる。正しくは「三男」であるはずである)

2008年

売文生活日記 どっからでもかかって来い!(第37回)四〇年日記 の巻
http://opac.ndl.go.jp/articleid/9317917/jpn
WiLL(ワック) 2008年2月号 121ページより

 中学三年生の夏、弟を殺された高校三年生の、兄が発狂した。弟は医者になりたいと願っており、兄は弁護士になりたいと思っていた。私は革命家かスパイか首相になりたかった。アホだったのである。

(注:他の記述では「兄が発狂した」という時期がとされているが、この記述のみ、になっている)

2009年
裁判官に気をつけろ!(文春文庫, 2009/6/10)
http://www.amazon.co.jp/dp/4167655071/
序章 裁判員制度を笑う(七) 22~23ページ(第1刷)より
私が初めて裁判を傍聴したのは一九七五年、高校一年生のときでした。少年事件で亡くなった弟の裁判です。少年事件は被害者にも非公開なので傍聴できないのですが、両親が損害賠償を求める民事裁判を起こしたので、そこについて行って傍聴席にいました。

(注:当該書籍は2003年の『裁判官に気をつけろ!』の文庫化である。引用元である序章は文庫本のみの収録であり、単行本にはない)
怒りは正しく晴らすと疲れるけれど(ワック, 2009/8/4)
http://www.amazon.co.jp/dp/4898311334/
269~270ページ(初版)より

(注:初出(「WiLL」2008年2月号 )から記述に変更なし)

戦場取材では食えなかったけれど(幻冬舎新書, 2009/11/30)
http://www.amazon.co.jp/dp/4344981510/
28~29ページ(第1刷) 序章 戦場に行かなかった父から子へ より

(注:『死の準備』の再収録であり、記述には改行位置・字下げ以外の変更はない)

2010年

少年リンチ殺人―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》(新潮文庫, 2010/1/28)
http://www.amazon.co.jp/dp/4101300526/

214ページ(刷数不明。2010/2/1発行) 第一部 第五章 終わりなき喪 当事者 より
223~224ページ(刷数不明。2010/2/1発行) 第一部 終章 知られざるまま 弟 より

(注:共に1999年『少年リンチ殺人』から記述に変更なし)

2011年

電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。(講談社, 2011/4/28)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062169630/

177ページ(第1刷) 中篇 「滅びゆくモノ」たちを思考整理する 終わらぬ加害 より

 TBS社員から私に直接送られたメールもあった。
《お前はキチガイだ。弟が殺されて発狂して未だに精神病院に入院している兄のお隣のベッドに、お前も入院して、ずっと寝てろ。》
 名前もアドレスも特定できた。以前にTBSディレクターとしてメールを何度かもらったことがある正真正銘の社員だ。
 私は、返答した。
《TBSの一部暴言大好きな方々へ。想像してみてほしい。私の弟は中1の夏に殺されました。衝撃で兄が心の均衡を崩して入院し、今に至ります。父も母も数年に亘り、身体を壊しました。当時十代の私は、毎日泣きながらも、自分は鈍感なのか、と苦しんだ。凶悪犯罪は被害者家庭を崩壊させるのですよ》と――。
221ページ(第1刷) 後篇「生き残るコツ」を思考整理する 天敵 より
 とりわけ、弟を中学で殺されて以来、私も他の(当時の)家族も、数年間は全く笑わなくなった。
 生き残った者が楽しく生きようとすることに、抵抗感が出る。おいしいものにも、手を出しにくい。
 他殺であってさえ、遺族が理不尽な「罪悪感」を抱く事実は、理解していただければと思う。
東北関東大震災2000キロの旅 見えない敵と、見えざる敵と。
http://opac.ndl.go.jp/articleid/11036409/jpn
新潮45 2011年5月号 97ページより
 妹一家を訪ねた。家が消えていた。
「心配するから言えなかった」。変わらぬ明るい笑顔で、そう言われた。
情報への作法(講談社+α文庫, 2011/9/20)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062814331
266ページ(第1刷) 第14章 六法よりも奇なり より

 私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の死や、その事件を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

(注:当該書籍は1997年『情報の技術』を改題・再文庫化したものである。なお、この引用部には『情報の技術』から記述が変わっている箇所があるが、前回の改題・文庫化である『情報系 これがニュースだ』からは記述は変わっていない)

つながる読書術(講談社現代新書, 2011/11/18)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062881330/
33ページ(第1刷)より

 私自身が「本読み競争」に参加したのは高校三年の三月からです。それまで書店で本を買ったこともなく、本好きの姉にバカにされていました。

第三者による記述

以下は、日垣氏以外の第三者による記述である。一般読者によるブログ等での投稿は多数あるが、ここではジャーナリストや出版関係者等によるもののみとりあげる。

柳美里氏

第三回 新潮ドキュメント賞発表 受賞作 日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』,山本譲司『獄窓記』
http://opac.ndl.go.jp/articleid/7083169/jpn

<あとがき>の「私の弟は理不尽に殺され、兄は長く精神分裂病に羅漢したままです。(中略)二つの事実を、私の中で何とか統一できたらと願いながら長い調査と取材を続けてきました」という箇所を読んで、欲深で非情な読者である私は、自身の「統一」は打ち棄て、「着地」を目指すことなく、手に握りしめた刃物の光だけを頼りに、自身の「闇」にさらに分け入ってほしい、日垣隆氏には、その動機と勇気と覚悟があるのだから、と思った。

花田紀凱氏
何でも学校のせいにするに人権ママ(中略)など小気味いい文章でバッサリ。
http://www.bk1.jp/review/0000008521
ことに第3章「少年にも死刑を」は御自身、仲の良い弟さんを13歳の少年に殺されたという辛い体験を経ているだけに力がこもっている。
藤井誠二氏
平成21年度「犯罪被害者週間」国民のつどい 実施報告 沖縄大会基調講演「犯罪被害に遭うということ」
http://www8.cao.go.jp/hanzai/kou-kei/houkoku_h21/okinawa_giji_kouen.html
私、藤井誠二と、私の先輩の日垣隆さん。日垣さんは、弟さんが殺された方です。お兄さんが精神障害者の方で、例えば『そして殺人者は野に放たれる』という、日本で最初に精神障害者で人を殺しても無罪になってしまうという問題点をあぶり出した、私の先輩ジャーナリストです。それから、先日、がんで亡くなってしまった黒沼克史さん。彼が『少年にわが子を殺された親たち』という本を書いて、少年犯罪被害者の問題を日本に最初に提示したジャーナリストです。この方も先輩です。
藤井誠二氏・宮崎哲弥氏
『少年をいかに罰するか』(講談社+α文庫, 2007/9/20)
http://www.amazon.co.jp/dp/406281143X
412ページ(第1刷) 第三章 被害者と報道 より
(3)日垣隆氏 一九五八年、長野県生まれ。東北大学法学部卒業。作家、ジャーナリスト。『<検証>大学の冒険』『偽善系』『少年リンチ殺人』など著書多数。みずからもかつて一三歳の弟を少年に殺されている。
加藤幸雄氏
『日本福祉大学社会福祉論集』第106号2002年2月 被害者感情と非行臨床
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/koko/goannai/shingikai/iinkai-shuryo/jiken/documents/giji11-1.pdf
日垣隆 (1999) のルポルタージュは, 著者自らも弟を殺された経験を持ち, 被害者に共感的に接近できる立場から, 「被害者」 の心情等を伝えている.
高原剛一郎氏
「魂のルーツとの再会」
http://biblegospel.org/zen2/z568.html
日垣さんが中学生の時、同じ中学に通っていた仲良しの弟が、何の意味もなく殺され、直接手を下した者が当時13歳であったために、少年院はおろか教護院にすら入ることなく、事件の翌日から学校に登校して来たっていうんです。彼は周囲には何も知られず、いつも通りに笑っています。弟を殺しておいて何一つ罰を受けることなく、平然と暮らしてる姿に日垣さんは猛烈な怒りを感じるのですが、実はそれ以上に耐えがたいことが一つあったと言うのです。それは犯罪そのものをなかったことにするために、弟が初めからいなかった人のように扱われたということです。
大石英司氏
日垣隆をワッチし、告発するサイト
http://www.ne.jp/asahi/eiji/home/main/200306higaki.htm
そして彼はまた、少年時代、ご兄弟を学校の中で殺されるという不幸な過去をお持ちの人でもあります。そういうご自分の体験もあり、数年前、飯田高校内で発生した刺殺事件の検証委員会のメンバーを務めることになります。ご本人曰く、それは「ボランティア」ということでした。
奥秋昌夫氏
丸実生自殺、変り者扱いの県教委
http://blog.goo.ne.jp/tuigeki/e/933b971a51583b9897611f82f5c8dc48
日垣隆は飯田高校殺人事件検証委員会の委員で、実質的に委員会を仕切り、被告席に座らされた関係者をいいように怒鳴り上げていた。日垣は中学生時代に自分の弟が学校側の不注意で死亡した私憤を委員会を利用してぶちまけただけではなかったのか。