2012/11/15

問題の新聞記事・判決文を踏まえた日垣隆氏による記述へのさらなる疑問

以前の記事『問題の新聞記事・判決文と日垣隆氏による記述の一致』では発見された新聞記事判決文判決後の新聞記事が日垣氏の弟についてのものである可能性について述べた。これらが日垣氏の弟についてのものである場合、さらに以下の点が問題になる。

  1. 被害者の両親は殺人を主張していない
    『少年リンチ殺人』(1999年)には「私の弟は、十三歳でその命を閉じた。両親は、教師たちの過失による「事故」だと、今でも信じようとしているのだが、うすうす気がついているのではないか、と私は感じている。」と書かれているが、これは日垣氏の両親さえも「被害者は同級生により殺された」とは主張していない、ということである。
    これは日垣氏の記述のみを見ても導き出されることであるが、判決文を見ると確かに原告(被害者の両親)は「同級生による殺害」を主張していない。
    本件について事故ではなく殺人(他殺・犯罪)であると主張している者は日垣隆氏以外に見つかっていない。一方、資料に残されている限りすべての当事者(被害者の両親、学校関係者など)はこの件を事故として扱っている。
  2. 加害者は存在したのか、刑法41条・少年法は適用されたのか
    『少年リンチ殺人』(1999年)には「相手は、刑法(第四十一条 十四歳に満たない者の行為は、罰しない)および少年法に基づき、取り調べさえ受けなかった。最初から「なかったこと」にされた。」という記述があるが、刑法41条・少年法を根拠にした場合、その行為は「なかったこと」にはならない(参考:日垣隆は「弟の死」の真相を明らかにすべきだ)。これは日垣氏が法律を理解していないという指摘であるが、判決文を見ても被害者が除雪溝に転落したことは「不慮の事故」とされている。他者の関与についても「浮わついた気持から級友とふざけ合って遊んでいたため本件除雪溝に転落したことを認めうる証拠もない。」と書かれており、様々な可能性の一つとして挙げられているのみである。もし日垣氏の主張するように「弟は同級生により殺害されたが、加害者は刑法41条・少年法を根拠に罰を免れた」のであれば、判決文はこのような記述にはならず、転落したことも「不慮の事故」(判決文にそう書かれている)として扱われることはないはずである。
  3. 日垣氏の語るエピソードは本当にあったことなのか
    『サイエンス・サイトーク いのちを守る安全学』(2001年)では、「弟が殺されて結局“学校事故”っていうことで処理されたのですけど、葬式などがあって十日間くらいしてから、ようやく僕は学校に行くんですね。」という導入部から、その日の授業中に教師から酷い扱いを受けたという話に続く。しかし、新聞記事及び判決文によると被害者が死亡したのは7月23日であり、その十日後となれば既に8月になっている。この頃は中学校は既に夏休みではないのか(参考:夏休みの期間(日本国内)(Wikipedia) )。本当に授業はあったのか。そして、これらの不可解な記述から、このエピソードは本当にあったことなのか疑問である。
  4. 日垣氏の言う「事件に関する全資料」から何がわかるのか
    『少年リンチ殺人』(1999年)で「私はいつか必ず、弟の事件に関する裁判記録を熟読しようと思ってきた。最初は父が、その作業にあたろうとしていたのだが、精神的にまいってしまうほうが先だった。」「この本を書くために、とりわけ第五章の末尾を書くために、私は今こそ弟の事件に関する全資料をひもとこう、と決意したのだが果たせなかった。」と書かれている。この「事件に関する全資料」とは「裁判記録」のことであろうと考えられるが、問題の裁判では殺意などについては争点になっていない。「全資料」とはどのようなもので、それを読むことで何を知ろうとしていたのか疑問である。

以上のように日垣氏の記述には齟齬・疑問点・問題点があり、弟が同級生により殺害されたという主張は疑わしい。

日垣隆氏による「弟」についての改訂

日垣隆氏は学生時代に弟を亡くしている。このことは、日垣氏が自ら繰り返し自著で触れている。1999年『少年リンチ殺人』の出版以降、日垣氏は「弟は同級生に殺され、少年法により加害行為は”なかったこと”にされた」と主張している。この経験に基づいて、日垣氏は少年法について発言したり、犯罪被害者として意見を述べたりしてきている。

しかし、日垣氏の著書では弟の死についての記述が初出時(雑誌掲載時)から改訂されていたり、文庫化の際に改訂されていたりする。この記事では、それらの改訂のうち重要なものを紹介する。

改訂A:「弟の事故死」→「弟の死」

1997年に出版された単行本『情報の技術』を2001年に『情報系 これがニュースだ』として改題・文庫化する際、次のように改訂されている。

  1. 「弟の事故死」→「弟の死」
  2. 「弟の学校事故」→「事件」

以下に比較のため前後の記述も含めて並べる。

情報の技術(朝日新聞社, 1997/10)
225~226ページ(第1刷)第14章 六法よりも奇なり より

 私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の事故死や、その弟の学校事故を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

情報系 これがニュースだ(文春文庫, 2001/3)
266ページ(第1刷) 第14章 六法よりも奇なり 不渡り より

 私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の死や、その事件を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

なお、日垣氏は2011年に『情報への作法』として『情報系 これがニュースだ』を改題し再文庫化している。これらの間では改訂されている部分はなかった。

これらの記述を比較してみると、弟は事故で亡くなったとしていたのだが、それについて事故ではなく事件であると記述を変えたことがわかる。

改訂B:「学校事故で失い」→「殺され」

「エコノミスト」誌に連載されていた「敢闘言」を『敢闘言―さらば偽善者たち』として単行本化する際、次のように改訂されている。

  1. 「弟を学校事故で失い」→「弟を殺され」
  2. 「弟を殺したに等しい教師たち」→「弟を殺した者たち」

以下に比較のため前後の記述も含めて並べる。

エコノミスト(毎日新聞社) 1995年1月10日号
11ページ「敢闘言」より

 私は中学三年生のとき二つ下の弟を学校事故で失い、以来、正直に告白すれば、弟を殺したに等しい教師たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上がかかった。

敢闘言―さらば偽善者たち(太田出版, 1999/5)
143ページ(初版)1995.1.10 命を奪われない限りにおいて より

 私は中学三年生のとき二つ下の弟を殺され、以来、正直に告白すれば、弟を殺した者たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上かかった。

これらの記述を比較してみると、前者では弟はやはり事故で亡くなったとされている。またその責任が教師たちにあることを示唆している。しかし後者では事故ではなく殺されたと記述を変更し、あわせてその責任が教師たちにあるとしていたのをぼかすように改訂されている。

「事故」から「事件」へ

ここまでの改訂内容でわかるように、日垣氏は当初、弟は事故で亡くなったとしていた。そして後にそれを「事件」であり「殺された」つまり弟の死は殺人事件であったと自らの主張を変更している。

改訂C:「事故」→「致死事件」

1992年に出版された『日本人が変わった――ふくらんだ泡が弾けて』に収録された記事を1998年に『子供が大事!』に再録する際、次のように改訂されている。

  1. 「教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。」→「教師たちに、命を奪われたのである。」
  2. 「事故」→「致死事件」
  3. 「死亡事故の原因が、すべて弟の不注意に帰せられていた」→「死亡の原因が捏造され、なんと弟の不注意に帰せられていた」
  4. 「不注意な生徒というイメージをもたせるために、報告書のうえで成績を落とすことが彼らには必要だったのだろう。」という記述の追加
  5. 「僕は父に、そのことを告げた。」→「その場で僕は父と教育長に、そのことを告げた。」

以下に比較のため前後の記述も含めて並べる。

日本人が変わった――ふくらんだ泡が弾けて(毎日新聞, 1992/8)
203~205ページ(刷数不明。1992/8/20発行) 分裂病の兄よ、逝ってしまった弟よ より

 悪夢である。が、実際に起こったことだ。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。
(略)
 それまで、教師たちから、事故に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接、耳にしていた。小さな中学校だったから、弟と僕の教え手はほとんど重複していたのである。だが、教育委員会に提出された報告書に書かれてあった内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていた。死亡事故の原因が、すべて弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知表までもが見事に改竄されていたのだった。僕は父に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。

子供が大事!(信濃毎日新聞社 , 1998/11)
14~18ページ(初版)第1話 兄よ、弟よ より

 悪夢である。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちに、命を奪われたのである。
(略)
 それまで、教師たちから、致死事件に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接耳にしていた。だが、教育委員会に提出された報告書に明記されていた内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていたのである。死亡の原因が捏造され、なんと弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知票までもが見事に改竄されていたのだった。不注意な生徒というイメージをもたせるために、報告書のうえで成績を落とすことが彼らには必要だったのだろう。
 その場で僕は父と教育長に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。

これらの記述を比較することで、以前は「弟の死は事故によるものであるが、教師たちに過失があった」としていたものを、のちに「これは事件であり、加害者が教師たちであり、そして教師たちは事件を隠蔽しようとした」かのような記述に改訂されたことがわかる。

問題点

冒頭に『日垣氏は「弟は同級生に殺され、少年法により加害行為は”なかったこと”にされた」と主張している。』と書いた。しかしここまでの改訂で同級生は出て来ない。実は日垣氏による弟の死についての記述は次のように時期によって異なるのである。

1990年~1996年 事故で亡くなった
1997年~1998年 (教師たちに)殺された
1999年~ 同級生(少年)に殺された

この「時期による主張の変遷」はおおまかなものであり、多少のブレがあったりもする。時期によって弟がどのように亡くなったのかという説明が一貫していない上に、発言する場によっても変わってくるのだ。それらは『日垣隆氏による兄弟(弟)についての記述・発言一覧』としてまとめておいた。

このように主張が一貫していないことにより「日垣氏の弟は本当はどのようにして亡くなったのだろうか」という疑問が呈されるようになった。事故なのだろうか、教師に殺されたのだろうか、同級生に殺されたのだろうか、それともそれ以外なのか。また、同級生に殺されたのでなければ、少年法について「弟が少年に殺された」という経験を元に語っていたことは問題ではないのか、そして事故であるならば「犯罪被害者」という立場から語っていた言葉は何だったのか、という問題もある。

このテーマではこれらの疑問についての調査研究結果を記録していく。

(『「日垣隆氏による弟についての記述」への疑問』に続く)

2012/10/07

週刊現代「なんなんだこの空気は メディア考現学」掲載リスト

# 見出し 掲載号
1 足利事件で忘れられた精神鑑定書の罪 2009/07/18号
2 拉致被害者の「遺骨」をめぐる日本側の錯誤 2009/07/25号
3 「日食ハンター」をご存知ですか?7月22日に注目!   2009/08/01号
4 取材とは何か そして 何が変わったのか 2009/08/08号
5 指先だけで書く「予定稿」は本当に必要なのか? 2009/08/22・29号
6 芸能人の覚醒剤事件も市民が「深く考える」裁判員制度の対象に 2009/09/12号
7 不倫メールの隠し方と、いつの間にか、超監視社会へ 2009/09/19・26号
8 いったい活字はどこまで崩壊するのか。それとも、むしろ復興? 2009/10/03号
9 組閣時の日本式「正装」をめぐる、いくつかの疑問と不安   2009/10/10号
10 時間の待ち方の変容 または10分1000円理容の感銘 2009/10/17号
11 「友達がいない!」と、「おひとり様」の間 2009/10/24号
12 キンドルが日本上陸。買い方だけでなく、読み方も変わる 2009/10/31号
13 結婚式と葬式とネット中毒 2009/11/07号
14 走り始めると、なぜ、無理をしてしまうのか 2009/11/14号
15 せっかち派VS.のんびり派 2009/11/21号
16 「無人島でこの××」について、考えてみた 2009/11/28号
17 大過ない人生と、挑戦的な人生。そしてTHIS IS IT! 2009/12/05号
18 睡眠障害が急増中。けれども、そんなことより 2009/12/12号
19 ラジオの衝撃から約1世紀――メディアを手にした大衆 2009/12/17号
20 新聞社は、これからどうやって食っていくのか 2009/12/26・2010/01/02号
21 人脈って何?ちょっと気持ち悪くないか 2010/01/09・16号
22 2010年、パーソナル・インフラと会社の致命的問題 2010/01/23号
23 モノからライブへ。憧れから体験と参加へ。この動きは止まらない 2010/01/30号
24 ブック・クラブを私は、流行らせたいと思う 2010/02/06号
25 孤独な読書と、サロン的な読書とは、まったく違う体験知 2010/02/13号
26 読まずに死ねるか、あの古典や名著を、手に取らぬままには 2010/02/20号
27 古いメディアと、新しいメディアとの、共存としての大読書会 2010/02/27号
28 現場で考える、現場を見る、現場で読む 2010/03/06号
29 中2生は映画を無料に、という提案。たとえ、それがなくても親が……   2010/03/13号
30 電子書籍の衝撃は、電子レンジほどのものではない(笑) 2010/03/20号
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32 電子書籍の「黒船来襲」なんて、大したものじゃない! 2010/04/03号
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34 再びダダ漏れについて。悪しき面もあるけれど、画期的な良薬なり 2010/04/17号
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44 スポーツの感動、予期せぬ事態、寄り道は豊かさの要諦 2010/07/10号
45 控えめな上海万博を舐めてはいけない。激変するサービス力 2010/07/17・24号
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75 客を「映画泥棒」扱いする劇場を拒否しよう!   2011/03/12号
76 北アフリカで、本当の所いま何が起きているのか?   2011/03/19号
77 未知の世界での情報の集め方、行動の決定方法   2011/03/26号
78 大異変のとき結局、何が頼りになるか   2011/04/02号
79 日本全土が被災地であり、全員が被害者だ   2011/04/09号
80 そもそも、取材とは何だろうか   2011/04/16号
81 「ご本人様でいらっしゃいますか」って、お前こそ誰だ   2011/04/23号
82 便利さと引き換えに充電器問題――25年の変化   2011/04/30号
83 チェルノブイリとフクシマ。同じこと、違うこと   2011/05/07・14号
84 津波が戦争を終わらせた――。人類への試練   2011/05/21号
85 身近なところで小さな努力を――。または闇について   2011/05/28号
86 危機を煽り立てる派vs.あとづけで解説派   2011/06/04号
87 仲間内意識が、国内外の報道を歪ませる   2011/06/11号
88 社会主義と資本主義とは、合わせ鏡のような   2011/06/18号
89 ANAよ、キミもJALの如くに   2011/06/25号
90 ANAよ、さらば――とは言わないが   2011/07/02号
91 なんとなく流れる定義なきレッテルに、誰も抗い難い   2011/07/09号
92 『源氏物語』とFacebookに共通するもの   2011/07/16・23号
93 オークションは、かつて高嶺の花だった   2011/07/30号
94 誰でもできる身近なリアル・オークション   2011/08/06号
95 あなたもネトオクの主宰者に!   2011/08/13号
96 Facebookでナンパされそうになった話(前篇)   2011/08/20・27号
97 Facebookでナンパされそうになった話(中篇)   2011/09/10号
98 Facebookでナンパされそうになった話(後篇)   2011/09/17号
99 フジテレビを囲んだデモに見る「達成感」考   2011/09/24・10/01号
100 新大陸と旧大陸――好機到来の件   2011/10/08号
101 損切りと得切りが、勝負と人生を大きく分かつ!   2011/10/15号
102 ANAのドジミス連発のお蔭様で、より楽しい旅に(笑)   2011/10/22号
103 禁断のFXは、ギャンブルゆえ楽しいのだ!   2011/10/29号
104 東電株が上がり始める日を予測する方法   2011/11/05号
105 解説書が煽るのは、勝者が少ない故だ。娯楽として楽しもう!   2011/11/12号
106 そろそろ手帳の時期。これぞベスト!は、なかなかないよね   2011/11/19号
107 思えば遠くへ来たもんだねえ、通信事情も   2011/11/26号
108 人によって旅の目的は違う。歳による変化も大きい   2011/12/03号
109 「ランナーズ手帳」なるほど、この手があったか   2011/12/10号
110 フェイスブックの「フェイス」問題について考える   2011/12/17号
111 プロが予測を外したら、今後はペナルティを(笑)   2011/12/24号
112 島崎藤村が生活のために敢行した自費出版   2012/01/14号
113 出版セミナー全盛。やれやれ、な諸問題   2012/01/21号
114 国境の越え方。そもそも、考えたい「国」の「境」とは   2012/01/28号
115 黄熱病の予防だけしても、どうなのよ   2012/02/04号
116 アフリカの通信事情はいま、どうなっているか   2012/02/11号
117 どこでも仕事が出来る時代。いいことなのか?   2012/02/18号
118 損切り回避の秘策、教えます   2012/03/03号
119 フェイスブックはなぜ、面白いのか(前篇)   2012/03/10号
120 フェイスブックはなぜ、面白いのか(中篇)   2012/03/17号
121 フェイスブックはなぜ、面白いのか(後篇)   2012/03/24号
122 津波は、またいつか必ず来る   2012/03/31号
123 東急不動産社長への公開質問状   2012/04/07号
124 追伸。東急不動産、金指社長殿   2012/04/14号
125 なぜ人々は、テレビを見なくなったのか   2012/04/21号
126 世界を席巻するスマホは「どこでもドア」   2012/04/28号
127 陸からか、海からか、空からか   2012/05/05号
128 写真という媒体と自意識の暴走   2012/05/19号
129 時間厳守と「青春」考   2012/05/26号
130 異国から見聞してみた日本の「ニュース」   2012/06/02号
131 著名衰退企業にも生前葬は如何?   2012/06/16号
132 悩ましいねえ堂々たる違法コピー   2012/06/23号
133 違法コピー、その商法の行きつく先は   2012/06/30号
134 ありえたかも知れぬ人生は、ニュースもまた例外ではない   2012/07/07号
135 趣味は、楽しいですよね?では仕事は?   2012/07/14号
136 ヲタク、適度なストック、過剰性   2012/07/21号
137 ネバー・ギブ・アップ!   2012/08/04号
138 Rich? or Happy?(最終回)   2012/08/11号

…「ダ」は『ダダ漏れ民主主義』、「電」は『電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。』に収録されている。

2012/10/04

日垣隆「ダイオキシン猛毒説の虚構」が国会で取り上げられた時の議事録

日垣隆氏による記事「ダイオキシン猛毒説の虚構」が国会でとりあげられるということがあった。この時、専門家はその記事を肯定的にはとりあげなかった。日垣氏はそのことを著書で扱っているのだが、日垣氏が紹介する議事録の内容と実際の議事録に違いが見られる。この記事ではその違いについて指摘する。

日垣隆著『敢闘言―さらば偽善者たち』(1999年、太田出版)の37~38ページ(初版)に以下の記述がある。

 私のルポが国会でとりあげられ、専門家四人が長々とコメントを加えるという場面があったのだが、他の三人が要するに「敵ながら痛いところをつかれた、心したい」と答えざるをえなかったのに対し、一人だけ環境総合研究所の青山所長という人が私を罵倒しているのである。国会での議事録を私に見せたのは、その所長の腰巾着記者だった。おまえは、こんな取材をしているのか、と難じて私に見せたのである。所長さんは、日垣の自分に対する取材方法がいかに醜いものだったか、大金を積んで資料を買い取るからおまえたちは黙れと言われた、とまで「証言」なさっていた。そんな卑劣な男の書いたルポは読むに値しない、と国会で吐き捨てるように断じている。

これは当該書籍の第1章「ダイオキシン猛毒説の虚構」(初出:文藝春秋 1998年10月号)という記事を収録するにあたり、付記として書かれた文章である。

日垣隆氏の記事が国会で取り上げられ、日垣氏はその議事録を見た、とのことだ。

国会の議事録は国会会議録検索システムというものがあり、簡単に検索できる。当該の発言は第143回国会 衆議院 環境委員会 4号 平成10年(1998年)10月2日での発言であることがわかった。以下はその議事録へのリンクと、青山貞一氏が日垣氏について発言した箇所の引用である。

第143回国会 衆議院 環境委員会 平成10年10月2日 第4号
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/143/0378/14310020378004a.html

○青山参考人 青山です。
 日垣さんの論文を私も読みました。実は、日垣さんがそれを書く前に、私に取材を申し込まれてきました。日垣さんは、私の持っているデータを譲ってくれ、売ってくれとまで言いましたので、そういうものは売るもの、譲るものではなくて、自分の足で、環境庁であれ所沢であれ、行ってくれということでしたけれども、その一カ月半後ぐらいにそれが出ました。七十冊の本を読んだと書いてあります。何らかの意図があってそういうことを書かれたのかどうかわかりませんが、私は非常に、それもえらい稚拙、拙速な論文だと思っています。

この後、別の記者(横田一氏)の話に一旦移る。上の発言は「記者が記事を書く上で根拠となる資料・情報・データをシンクタンクに求めるのではなく、自分で現地を取材したり、元のデータを入手しなさいよ」ということを言っているのだと私は理解した。

そして日垣氏が書いているような「大金を積んで資料を買い取るからおまえたちは黙れと言われた」というような発言は見当たらない。また、「そんな卑劣な男の書いたルポは読むに値しない」というような、日垣氏を「卑劣」と非難する発言も見当たらない。

また、日垣氏は「専門家四人が長々とコメントを加える」『他の三人が要するに「敵ながら痛いところをつかれた、心したい」と答えざるをえなかった』とも書いている。この「他の三人の専門家」とは井口参考人・林参考人・千葉参考人であろうが、彼らの発言のどこが「敵ながら痛いところをつかれた」と解釈できるのか、私には理解できなかった。

この付記の冒頭(37ページ)には

このルポは「文藝春秋」九十八年一〇月号に掲載され、ハングル誌や英字誌にも翻訳転載された

という記述もある。まずは英字紙を探してみたが、これも見つからなかった。せめて雑誌名を、できればいつの何号なのか書いておいていただきたい。

 

注記

同名書籍の文春文庫版『敢闘言―さらば偽善者たち』(2002年、文藝春秋)には「ダイオキシン猛毒説の虚構」は収録されておらず、従って引用した付記もない。このブログ記事は太田出版の単行本を対象に書かれている。

2012/09/07

「日垣隆氏による弟についての記述」への疑問

日垣隆氏による「弟」についての改訂』では日垣氏による著作の改定内容を比較した。これにより、日垣氏の弟が亡くなった出来事について、日垣氏の説明が事故から殺人へと変わっていることがはっきりした。しかし、改訂内容だけでなく、日垣氏による弟についての記述を調べていくと、一読しただけでは気づきにくい不可解な記述や発言がある。この記事ではそれらを1つずつ説明していく。なお 1.~3. は前の記事(『日垣隆氏による「弟」についての改訂』)で既に説明しているので、それを読んでいる方は 4. から読めばよい。

  1. 「事故」から「(教師に)殺された」と主張を変更している
    それまで「事故」で亡くなったと書いていた弟について「敢闘言(エコノミスト1997年7月15日号)」で「弟を殺した教師たち」と記述している。 その後、『子供が大事!』の「兄よ、弟よ」では初出(エコノミスト1992年3月17日号)から記述が大幅に改訂されており、「事故」という表現がなくなっている。
  2. さらに「同級生に殺された」と主張を変更している
    1997年から1998年にかけて、日垣氏は弟が「殺された」あるいは「教師たちに殺された」と記述していた。しかし、1999年の『敢闘言―さらば偽善者たち』および『少年リンチ殺人』からは、弟は同級生(少年)に殺されたと主張し始める。この時、『敢闘言―さらば偽善者たち』では2つのコラムが以下のように雑誌掲載時から改訂されている。
    • 1995.1.10 命を奪われない限りにおいて
      「弟を学校事故で失い、」→「弟を殺され、」
      「弟を殺したに等しい教師たち」→「弟を殺したたち」
    • 1997.7.15 人は残虐な一面をもっている
      「弟を殺した教師たち」→「弟を殺したたち」
  3. 「事故死」→「死」、「事故」→「事件」と改訂している
    ここまでに3つの改訂をとりあげたが、それら以外にも改訂されている箇所がある。『情報の技術』(1997年)を文庫化した『情報系 これがニュースだ』(2001年)では、元の『情報の技術』で「弟の事故死」「事故」と書かれていた箇所が「弟の死」「事件」に改訂されている。
    これらの改訂に対する説明は特にない。しかし、これらの改訂からは主張を変更したという意思が伺える。なお、当該書籍は『情報への作法』(2011年)として三たび出版されるが、こちらの記述も「弟の死」「事件」となっている。
  4. 改訂漏れ?
    『少年リンチ殺人』(1999年7月)より後に出版された『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』(1999年12月)では「学校事故」「事故」という記述が残っている。
    先の例では「事故」という記述が改訂されているのだが、こちらの例では、「学校事故」「事故」という記述は改訂されずそのままになっている。執筆時期の前後関係についても考えたが、弟が「殺され」たと主張し始めたのはエコノミスト 1997年7月15日号である。この『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』は過去に出版された本の再販(合本)であることから、編集作業は主張を変更した後であろうと推定している。
    可能性としては、編集者やアシスタントなど日垣氏以外の誰かが編集作業にあたった、あるいは単純に見落としたということも考えられる。
  5. 「殺され」たと主張を変更してからも「事故」と発言している
    『少年リンチ殺人』(1999年)の出版から4年後の「飯田高等学校生徒刺殺事件検証委員会」(2003年)で「事故で弟を亡くした」と発言していることが議事録に残っている。
    『少年リンチ殺人』で主張を変更した後、この発言までの間に何度も弟について「殺され」た、「犯罪」等と書いているにも関わらず、この会議では「事故」と述べている。
    その理由はあくまでも不明ではあるが、 以下を考慮すると、日垣氏がここで「殺された」と主張せず、「事故」と述べたことは合理的であったかもしれない。
    • 日垣氏及び日垣氏の弟は長野市内の中学校に通っていた
    • 日垣氏の弟が亡くなった件には学校が関わっている
    • この会議は長野県の学校で起きた殺人事件の検証委員会である
    • この会議は長野県庁(長野市)で行われた
    • この会議には長野県の教育関係者が多数出席している
  6. 目撃者はいたのか、いなかったのか
    『少年リンチ殺人』(1999年)では「弟を直接、四メートルもある除雪溝に突き落として絶命させたのは当時十三歳の少年だ、という事実を私は直接本人からも、そこに居合わせた者たちからも聞いていた。」と書かれているが、『偽善系』(2000年)では「彼は周囲には何も知られず、いつもどおり笑っていた。」と書かれている。
    前者では弟が除雪溝に転落したことを目撃した者が複数おり、日垣氏は彼らから「弟は溝に突き落とされた」という目撃証言を得たことになっているが、後者では目撃者はおらず、「弟が溝に突き落とされた」ことは(日垣氏以外)他の誰も知らないかのような記述になっている。
  7. 日垣隆氏は誰から「それ」を聞いたのか
    目撃者についての記述にぶれがあるため、日垣氏が「弟は殺された」と考えるようになったきっかけは何だったのかという疑問がわく。先の引用をもう一度見てみると、「弟を直接、四メートルもある除雪溝に突き落として絶命させたのは当時十三歳の少年だ、という事実を私は直接本人からも、そこに居合わせた者たちからも聞いていた。」と書かれている。本人から聞いたのならば、それがきっかけでそう考えるようになったのかもしれない。しかし、この「本人」とは誰なのか。今のところ「本人=弟」「本人=加害者とされる人物」という2つの説がある。

これらの問題点からは、事故から殺人へと2回も主張が変わったという問題と共に、殺人である場合はその描写に齟齬が見られる。またそれとは別に、殺人へと主張を変えた後も事故と述べている場面があるという問題もある。

これらのことにより、殺人であるという主張が疑わしくなった。最初に述べていた「事故」が事実であり、殺人であったという主張は事実ではないのではないか、ということである。別の記事でも述べたが、事故であった場合、次の問題点がある。

  • 少年法について「弟が少年に殺された」という経験に基づいた意見を述べていた
  • 「犯罪被害者」という立場から意見を述べていた

このような疑惑について調査をしていた折、ある新聞記事が発見された。これにより事態は大きく進展する。

(『問題の新聞記事・判決文と日垣隆氏による記述の一致』に続く)

2012/09/04

問題の新聞記事・判決文と日垣隆氏による記述の一致

日垣氏による「弟は少年に殺された」という主張に疑問を感じて調査をしていた折、2012年8月24日にある新聞記事の発見報告があった。様々な点からこれは日垣氏の弟について書かれたものではないかと考えられ、関係資料が調査された結果、さらにその件での判決文(事件番号:長野地方裁判所 昭和50(ワ)63号)と判決後のインタビュー記事が見つかった。この調査経緯については記事末尾の参考資料を参照していただきたい。

これらの新聞記事と判決文はブログ「KAFKAESQUE(日垣隆検証委員会)」の以下の記事で紹介されている。

この記事では判決文・新聞記事と日垣隆氏による弟についての記述との一致する箇所を挙げる。

判決文・新聞記事と日垣氏による記述の一致点

  1. 被害者及びその両親の苗字が「日垣」である
  2. 被害者の父の職業が高校教員である(『子供が大事!』)
  3. 昭和48年(1973年)の出来事である
    日垣隆氏の生年月日は1958年7月30日である。日垣氏の弟が亡くなったのは日垣氏が「中学三年」の時(『<検証>大学の冒険』『怒りは正しく晴らすと疲れるけれど』など)であり、15才になる年、つまり1973年である。
  4. 夏の出来事である
    新聞記事及び判決によると被害者が死亡したのは7月23日である。日垣氏の弟が亡くなったのは、日垣氏が「中学三年生の夏」(『怒りは正しく晴らすと疲れるけれど』)である。
  5. 被害者の年齢が13才である
    (『閉ざされた回路』『少年リンチ殺人』)
  6. 事故状況の一致:被害者は深さ4メートルの除雪溝(側溝)に転落した(『少年リンチ殺人』)
  7. 事故状況の一致:事故は7月19日夜に起きた。被害者は4日後の7月23日朝に死亡した。日垣氏の記述によると「弟は三日間、生死をさまよった(『分裂病の兄よ,逝ってしまった弟よ』)とある。
  8. 事故状況の一致:学校行事(正課)中の事故である(『閉ざされた回路』『分裂病の兄よ,逝ってしまった弟よ』など)
  9. 場所の一致:長野県長野市立北部中学校(の校外活動)で起きている
    日垣氏は長野県長野市出身である。
  10. 被害者の両親が学校側に対して損害賠償を求める民事裁判を起こしている
    (『裁判官に気をつけろ!(文春文庫)』『分裂病の兄よ,逝ってしまった弟よ』など) 
  11. 家族構成の一致:被害者は四人兄弟の三男である
    判決文に以下の文がある。「日垣明は、原告ら夫婦の三男として生れ、二人の兄、一人の姉とともに慈愛に満ちた両親の下で健全な家庭の一員として健かに成長し、」(後略)
    (『サイエンス・サイトーク いのちを守る安全学』など)
  12. 裁判時期の一致:昭和50年(1975年)
    判決後の新聞記事に「日垣夫妻はこの事故で、五十年一月、長野簡裁に調停を申し立てた」と書かれている。『裁判官に気をつけろ!(文春文庫)』には「私が初めて裁判を傍聴したのは一九七五年、高校一年生のときでした。少年事件で亡くなった弟の裁判です。」と書かれている。1975年は昭和50年であり、裁判時期が一致する。

なお、問題の新聞記事と判決文は被害者及びその父親の名前・年齢、出来事の日付、事故状況、事故現場などが一致している。

このように多数の状況が一致するため、これらの新聞記事・判決文は日垣氏の弟についてのものである可能性が高いと考えられる。しかしその場合、『「日垣隆氏による弟についての記述」への疑問』で挙げた問題点に加え、さらなる問題点がある。

(『問題の新聞記事・判決文を踏まえた日垣隆氏による記述へのさらなる疑問』に続く)

参考資料

【連載ゼロ】日垣隆★95【54歳無職】
http://logsoku.com/thread/uni.2ch.net/ebooks/1345428338/125-

2012/09/02

日垣隆氏による兄弟(弟)についての記述・発言一覧

日垣隆氏は弟を亡くしている。このことは、以下に挙げるように日垣氏本人により繰り返し触れられている。ただし、日垣氏の記述は当初、弟は「事故」で亡くなったとされていたのだが、次第にその記述は「殺され」「犯罪」「他殺」と変化していった。以下に弟についての記述を中心に、兄弟についての記述を時系列に沿って並べる。

日垣隆氏本人による著作内での記述
1990年

閉ざされた回路―神戸「校門圧死」事件の深層(ルポルタージュ)
http://opac.ndl.go.jp/articleid/3355464/jpn
世界(岩波書店)1990年10月号 329~346ページより

 彼は、罪を背負わねばならない。過去を断ち切るために、あがかねばならないだろう。次第に、マスコミも世間も、時の経過とともに忘れてくれるだろう。だが遺族は、生涯、決して忘れることはない。十数年前の学校事故で、十三歳でしかなかったわが弟の命を奪われた僕自身の体験からも、それは言えることだ。
1992年

家族と人生への考現学―分裂病の兄よ,逝ってしまった弟よ(変容を解く-22-)
http://opac.ndl.go.jp/articleid/3434268/jpn
エコノミスト(毎日新聞社)1992年3月17日号 82~87ページより

 今でも、悪夢で、飛び起きることがある。それには二つのパターンがある。
 中学時代の僕が、夕食の準備をしている。当時にあっては珍しいことに、両親と兄が外出しており、弟との二人分の食事のため、僕が腕をふるっているのだった。二人は、いつも一緒だった。今から思えば幼稚なことに、寝る時まで手をつないでいた。その翌日、弟以外の家族が揃って談笑しているところへ、ある報せがもたらされる。
 僕は、そこで飛び起きるのだ。
 悪夢である。が、実際に起こったことだ。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。
 弟は三日間、生死をさまよった。医師は、仮死状態で意識不明だといった。
僕ら二人がずっと従者をつとめていたイタリア人神父が、病室に駆けつけてくれた。その神父が、ルルドの聖水を弟の体にかけた、その時、昏睡状態であった弟が、僕の手をしっかりと握った。そして母の手をとった。「わかるよ、わかる。僕は死にたくないんだよ」と弟は言った。それが最期だった。
 僕が心底から神に祈ったのも、それが最後になった。
(中略)
 それから二ヵ月がたったころ、僕は父に連れられて教育委員会を訪ねた。教員であった父は、その教育長とは旧知の間柄であったらしく、形式的には弟の件で報告と挨拶に立ち寄ったのであったのだが、半時間ほどあれこれの会話が交わされていた。一五歳には退屈な大人たちの会話が途切れるのを待つ間、僕は教育長の机の上にあった、弟の事故報告書を手にとってめくり始めていたのだった。
 それまで、教師たちから、事故に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接、耳にしていた。小さな中学校だったから、弟と僕の教え手はほとんど重複していたのである。だが、教育委員会に提出された報告書に書かれてあった内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていた。死亡事故の原因が、すべて弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知表までもが見事に改竄されていたのだった。 僕は父に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。そればかりではない。おそらく、教員であった父が、教育行政と同業者を訴えることになったその経過の中で、心身ともに傷ついていったに違いない。悲しみあえぐ家族にあって、一人たしかに凛々しかった父が、イタリア人神父の胸を借りて号泣していたのだと聞いたのは、ずっと後になってからである。父がそんな心労から、脳溢血で倒れたのは僕が大学に進学してからのことだった。

もう一つの悪夢は、僕が高校三年生の冬に起きた、ある出来事にかかわっている。兄は二浪していたから、大学受験が僕と重なってしまった。三年前の弟の事件は、家族の誰しもが胸に押し抱えながら、そのことを口に出すのは控え続けてきた、そんなある日のことだ。裁判のかたがついていただけに逆に、言い知れぬ理不尽さが、家族それぞれに襲いかかっていた。
 雪の降る真夜中のことだった。すでに就寝していた僕は、兄に起こされた。「隠しカメラがある!」と兄は叫んでいた。自分は天皇の子なのだ、とも言った。
 悪夢だ。が、これも現実に十五年前、実際に起きてしまったことだ。

<ルポ>高校ってなんだ(岩波書店, 1992/5/18)
http://www.amazon.co.jp/dp/4000024647
36ページ(初版)より

 彼は、罪を背負わねばならない。過去を断ち切るために、あがかねばならないだろう。次第に、マスコミも世間も、時の経過とともに忘れ始めてはくれるだろう。だが遺族は、生涯、決して忘れることはない。十数年前の学校事故で、十三歳でしかなかったわが弟の命を奪われた僕自身の体験からも、それは言えることだ。

(注:青字部分は初出(「世界」1990年10月号)から改訂された箇所である)

日本人が変わった――ふくらんだ泡が弾けて(毎日新聞, 1992/8)
http://www.amazon.co.jp/dp/462030882X
203~205ページ(刷数不明。1992/8/20発行) 分裂病の兄よ、逝ってしまった弟よ より

(注:初出(「エコノミスト」1992年3月17日号)から記述に変更なし)

1993年

<検証>大学の現在-8完-「学歴社会」異論
http://opac.ndl.go.jp/articleid/3517268/jpn
世界(岩波書店) 1993年10月号 144ページより

私は中学三年で大好きだった弟を学校事故で失い、大学受験を控えた高校三年のとき、同時受験をすることになった浪人中の兄が、弟の事故の顛末に耐えかねていたこともあって、分裂病をきたしていまなお入院したままだ。はっきりいってしまえば、学歴の諸問題など、死に比べたら何ほどのものではない、と考えているふしが私にはある。

1994年

<検証>大学の冒険 (岩波書店, 1994/1/27)
http://www.amazon.co.jp/dp/4000012797
260ページ(第1刷) 第八章 「学歴社会」異論 より

(注:初出(「世界」1993年10月号 )から記述に変更なし)

1995年

敢闘言
http://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&current_base=NDL01&doc_number=011686382
エコノミスト(毎日新聞社) 1995年1月10日号 11ページより

 私は中学三年生のとき二つ下の弟を学校事故で失い、以来、正直に告白すれば、弟を殺したに等しい教師たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上がかかった。
 成人してから大病を患い、薬の副作用なのか寝小便をたれ、私は真剣に自死を思ったことがある。そのさい防波堤になってくれた二人がいる。
(略)
もう一人は亡き弟である。子どもに先立たれた親を間近に見て、これほどの親不孝はないと肝に銘じざるをえなかった。この体験を私は一度だけ文章にしたことがあり、『日本人が変わった』(毎日新聞社)に収録されている。
(略)
事故発生時だけ学校バッシングに励むのは、子どもの管理強化に手を貸す道なのだ。

1996年

六法よりも奇なり
Ronza(朝日新聞社) 1996年4月号 144ページ より

 私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の事故や、その弟の学事故を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

1997年

敢闘言
http://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&current_base=NDL01&doc_number=011644435
エコノミスト(毎日新聞社) 1997年7月15日号 11ページより

他人様はどうだか知らないが、少なくとも私は殺意を抱いた瞬間が何度かあるし、中三の夏、弟を殺した教師たちへの復讐を実行しても二年くらいで出てこれるのではないかと考えたこともある。

情報の技術(朝日新聞社, 1997/10)
http://www.amazon.co.jp/dp/4022571837
225~226ページ(第1刷) 第14章 六法よりも奇なり より

(注:初出(「Ronza」1996年4月号 )から記述に変更なし)

1998年

暴発―長野・少年リンチ殺事件全記録(5)誹謗中傷…遺族が背負う「さらなる苦悩」
http://opac.ndl.go.jp/articleid/4483343/jpn
現代(講談社) 1998年7月号 324ページより

中学生だった私の弟が殺されてから、もう二十年以上が経とうとしているのに、いまだ癒されない自分を、そこに発見して愕然としたのである。

子供が大事!(信濃毎日新聞社 , 1998/11)
http://www.amazon.co.jp/dp/4784098216
14~18ページ 第1話 兄よ、弟よ より

 悪夢である。その日から、弟は二度と帰らぬ人となった。教師たちに、命を奪われたのである。
(中略)
 それから二ヵ月がたったころ、僕は父に連れられて教育委員会を訪ねた。高校教師であった父は、その教育長とは旧知の間柄であったらしく、形式的には弟の件で報告と挨拶に立ち寄ったのだった。半時間ほどあれこれの会話が交わされていた。一五歳には退屈な大人たちの会話が途切れるのを待つあいだ、僕は教育長の机の上にあった、弟の事故報告書を手にとってめくり始めていたのだった。
 それまで、教師たちから、致死事件に関する謝罪を受け、彼らがいかに理不尽な行為のもとに弟を死に追いやったかを僕は直接耳にしていた。だが、教育委員会に提出された報告書に明記されていた内容は、それまでの見聞とは一八○度も違っていたのである死亡の原因が捏造され、なんと弟の不注意に帰せられていたばかりか、中学になって弟が初めてもらった最初で最後の通知までもが見事に改竄されていたのだった。不注意な生徒というイメージをもたせるために、報告書のうえで成績を落とすことが彼らには必要だったのだろう。
 その場で僕は父と教育長に、そのことを告げた。のちに裁判となり、全面勝訴となったのだが、裁判に勝っても弟の命はむろん、帰ってなどこなかった。

(注:この章は『分裂病の兄よ,逝ってしまった弟よ』を加筆・改訂し、章ごとにタイトルをつけたものである。下線部分が改訂されている。主な改訂箇所を次に挙げる。

  • 「教師たちの重大な過失による学校事故で、命を奪われたのである。」
    →「教師たちに、命を奪われたのである。」
  • 「事故」→「致死事件」
  • 「死亡事故の原因が、すべて弟の不注意に帰せられていたばかりか、」
    →「死亡の原因が捏造され、なんと弟の不注意に帰せられていたばかりか、」
  • 「不注意な生徒というイメージをもたせるために、報告書のうえで成績を落とすことが彼らには必要だったのだろう。」という記述の追加
  • 「僕は父に、そのことを告げた。」→「その場で僕は父と教育長に、そのことを告げた。」)

酒鬼薔薇世代をどう描くか
(国立国会図書館 資料貼付ID:1200206017471)
VERDAD(ベストブック) 1998年12月号 33ページより

でも熟考のすえ今年十一月の末に、『子供が大事!』(信濃毎日新聞社刊)という本を出すことにした。メジャーな版元ではないので、八千部しか初刷りはないが――。
(中略)
第一章は、私が十五歳のとき仲の良い弟を殺されたことと、兄が発狂し、家族が崩壊していくその顛末を書いた。

1999年

敢闘言―さらば偽善者たち(太田出版, 1999/5)
http://www.amazon.co.jp/dp/4872334647

55ページ(初版)第2章 裁かれぬ殺人者たち 付記 より

他方、私の実弟は、刑法上の無能力者に殺されている。そのことは、別のところで最近になって初めて書くことができた(近刊『暴発』講談社)。

(注:『暴発』は『少年リンチ殺人』として出版される。月刊『現代』での『暴発』という連載記事をまとめたものが『少年リンチ殺人』である)

143ページ(初版)1995.1.10 命を奪われない限りにおいて より

 私は中学三年生のとき二つ下の弟を殺され、以来、正直に告白すれば、弟を殺した者たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上かかった。
 成人してから大病を患い、薬の副作用なのか寝小便をたれ、私は真剣に自死を思ったことがある。そのさい防波堤になってくれた二人がいる。
(略)
もう一人は亡き弟である。子どもに先立たれた親を間近に見て、これほどの親不孝はないと肝に銘じざるをえなかった。この体験を私は一度だけ文章にしたことがあり、『日本人が変わった』(毎日新聞社)に収録されている。
(略)
事故発生時だけ学校バッシングに励むのは、子どもの管理強化に手を貸す道なのだ。

(注:下線部初出(「エコノミスト」1995.1.10)から改訂された箇所である。「学校事故で失い」→「殺され」、「弟を殺したに等しい教師たち」→「弟を殺した者たち」と改訂されている)

267ページ(初版)1997.7.15 人は残虐な一面をもっている より

他人様はどうだか知らないが、少なくとも私は殺意を抱いた瞬間が何度かあるし、中三の夏、弟を殺した者たちへの復讐を実行しても二年程度で出でこれるのではないかと考えたことも実際ある。

(注:「出でこれる」は原文ママ。なお、初出(「エコノミスト」1997年7月15日号)時には「弟を殺した教師たち」という記述だったがここで「弟を殺したたち」と改訂されている)

300ページ(初版)1998.3.31 B級ニュースを味わう より

この四十六歳の男性はトレーナー姿だったという。足かけ三日間、一度も寝ることもなかったらしい。これら情況証拠と、私の身近な体験からして、この人は禁止だらけの精神病棟に帰ることになるのだろうと直感する。ファミレスでの制限のない飲食は、至福のときだったに違いない。
……………………………………
この四十六歳の男性は、二日間の勾留ののち、検察庁の判断で不起訴となったが、精神病院に措置入院させられた。文中「身近な体験」とあるのは、私のかつての家族を含んでいる。

少年リンチ殺人―「ムカつくから、やっただけ」(講談社, 1999/7)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062097923

222ページ(第1刷) 第五章 終わりなき喪 当事者 より

中学生だった私の弟が殺されてから、もう二十年以上が経とうとしているのに、いまだ癒されない自分を、そこに発見して愕然としたのである。

(注:初出(「現代」1998年7月号 )から記述に変更なし)

231~232ページ(第1刷) 終章 知られざるまま 弟 より

 自宅に帰って私は、六法全書をひもとき少年法のページに目をとめた。かつて私は、この法律に理不尽を感じて大学は法学部を選んだのである。
 私の弟は、十三歳でその命を閉じた。両親は、教師たちの過失による「事故」だと、今でも信じようとしているのだが、うすうす気がついているのではないか、と私は感じている。弟と私は同じ中学に同時に在籍していたから、「事故死」のあと、後輩たち(弟の同級生や同学年生)に事情を詳しく聞くことができた。裁判が始まったのは、私が高校に進学して間もなくだった。だがそこには、最も裁かれるべき者が欠けていた。弟を直接、四メートルもある除雪溝に突き落として絶命させたのは当時十三歳の少年だ、という事実を私は直接本人からも、そこに居合わせた者たちからも聞いていた。
 相手は、刑法(第四十一条 十四歳に満たない者の行為は、罰しない)および少年法に基づき、取り調べさえ受けなかった。最初から「なかったこと」にされた。だから、私たち遺された家族の怒りは、そのような理不尽な状況に追いやった教師たちに向けられてきた。
 私はいつか必ず、弟の事件に関する裁判記録を熟読しようと思ってきた。最初は父が、その作業にあたろうとしていたのだが、精神的にまいってしまうほうが先だった。私に全資料をバトンタッチした。しかし、そのようにして家族を失った事件の詳細に踏み込むことは、第三者でないかぎり絶対に堪え難いことだと私は思うのである。だが、本当のことを知りたい、という遺族の思いはけっして小さくなることはない。この二律背反が、いっそう夜明けを遠ざける。
 この本を書くために、とりわけ第五章の末尾を書くために、私は今こそ弟の事件に関する全資料をひもとこう、と決意したのだが果たせなかった。二十数年が経っているのに、精神的に変調をきたしてしまうのである。殺した相手が事件のことすら忘れてのうのうと生きているのだ、過去の詳細から逃げる権利くらい私たちにだってあるようにも思える。
著者略歴(第1刷)より
被害者の母親の慟哭に接したことに始まる「少年リンチ殺人」の取材は、かつて十三歳で殺された、著者自身の実弟とその加害者に、再び思いをめぐらす旅でもあった。

「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか(北大路書房, 1999/12)
http://www.amazon.co.jp/dp/4762821624

43~44ページ(初版第1刷) <ルポ>高校って何だ 第一章 閉ざされた回路 より

 彼は、罪を背負わねばならない。過去を断ち切るために、あがかねばならないだろう。次第に、マスコミも世間も、時の経過とともに忘れ始めてはくれるだろう。だが遺族は、生涯、決して忘れることはない。十数年前の学校事故で、十三歳でしかなかったわが弟の命を奪われた僕自身の体験からも、それは言えることだ。

259ページ(初版第1刷) <検証>大学の冒険 第八章 「学歴社会」異論 より

私は中学三年で大好きだった弟を学校事故で失い、大学受験を控えた高校三年のとき、同時受験をすることになった浪人中の兄が、弟の事故の顛末に耐えかねていたこともあって、分裂病をきたしていまなお入院したままだ。はっきりいってしまえば、学歴の諸問題など、死に比べたら何ほどのものではない、と考えているふしが私にはある。

(注:当該書籍は1992年『<ルポ>高校ってなんだ』と1994年『<検証>大学の冒険』の合本である)
2000年

激論!どうにかならんか「少年法」
http://opac.ndl.go.jp/articleid/5366711/jpn
サンデー毎日(毎日新聞社) 2000年6月25日号 148ページより

日垣 二十数年前に当時中学1年生だった自分の弟が殺されたのですが、14歳未満の者は刑法による罰を受けないということに関して、じゃあ弟は誰に殺されたんだという思いがずっとありました。

偽善系(文藝春秋, 2000/9)
http://www.amazon.co.jp/dp/4163566007/
86ページ(第5刷 2000年11月20日)第三章 少年にも死刑を より

 私は『少年リンチ殺人』(講談社、九九年)という本のあとがきに一度だけ書き、もうあまり思い出したくもないので詳しく触れることは避けたいのだが、同じ中学に通っていた仲のいい弟を何の意味もなく殺され、直接手を下した者が十三歳だったため、少年院はおろか教護院(教護院に処遇するためには犯人である少年の親の同意が必要なのである)にすら入ることなく、翌日から中学に登校してきた。彼は周囲には何も知られず、いつもどおり笑っていた。顔が引きつったのは、兄である私と廊下ですれ違うときくらいだった。これが少年法にいう更生なのか。まるで犯罪そのものが存在しないかのようであり、教師たちはその事実を隠しとおし、あたかも弟は勝手に事故でも起こして消失したかのような扱いを受け続けた。

(注:『少年リンチ殺人』に弟についての記述があるのは「あとがき」ではなく「第五章」と「終章」である。「あとがき」には弟についての記述はない)

著者と60分 日垣隆 偽善系
http://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&doc_number=011067418
週刊文春(文藝春秋) 2000年9月28日号 153ページより

 日垣さんは少年法の問題だけでも二十五年にわたって、自分の問題として考えてきた。きっかけは、実弟が、同じ中学校に通っていた十三歳の少年に殺された事件である。驚いたのは、翌日からその少年がいつも通り登校をしたことであった。十三歳ゆえ殺人行為を誰にも知られず、犯罪さえもなかったかのように処理された。
「殺した奴がいないのに、殺された者がいる。弟は勝手に死んだことになったのです」
 だから少年法は次のように変えるべきだという。

(注:これは西所正道氏によるインタビュー記事である)

マスコミも、これまで被害者を無視してきたことを反省しなくてはならない
http://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&doc_number=011075051
SAPIO(小学館) 2000年12月6日号 47ページより

身内のことはあまり書きたくなかったのですが、僕自身も、13歳の弟を殺された体験があることは、別に隠すべきことではないと思っています。最近、法廷で実際起こった事件のように、被害者の家族が加害者に対して殴り掛かったり、殺してやりたいと思うこともあるでしょう。私もそう思っていた。

婦人公論井戸端会議 犯罪被害者を支えるために
http://opac.ndl.go.jp/articleid/5565031/jpn
婦人公論(中央公論新社) 2000年12月7日号 177ページより

田丸 改正といえば少年法ですが、少年法に関して日垣さんは、本でもお書きになっていますが、ご自分の弟さんが十三歳の同じ学校に通う同級生に殺された経験があって、それ以来、二十年以上考えていらっしゃるということですよね。
日垣 ええ。あまりにもひどすぎると思ったのは、こっちは弟の葬式をやるのに学校を一週間も休んでいるのに、加害者の方は犯行の翌日から学校に行って、ニコニコしているわけですよ。
田丸 警察の取り調べもないんですか。
日垣 ないですよ。つまり、加害者は十三歳なので、少年法にも刑法にもひっかかりません。親が同意しなければ教護院にも行かなくてすむわけです。僕はそのとき中学三年生だったのですが、少年法を読んで、本当にびっくりしました。

2001年

情報系 これがニュースだ(文春文庫, 2001/3)
http://www.amazon.co.jp/dp/4167655012/

266ページ(第1刷) 第14章 六法よりも奇なり 不渡り より

 私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の死や、その事件を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

(注:当該書籍は1997年『情報の技術』を改題・文庫化したものである。なお、この引用部は『情報の技術』から記述が変わっており、「弟の事故死」→「弟の死」、「事故」→「事件」と改訂されている)
516~517ページ(第1刷) 解説 より
 ある本に付された著者プロフィールには、こうある。
《作家、ジャーナリスト。1958年、長野県生まれ。中3で弟を殺され、高3のとき兄が分裂病に、家族は崩壊する。東北大学法学部在学中に学生結婚。卒業直前に大病を患い、体重が減ったほかは奇跡的に快復。あとはオマケの人生と腹をくくる。販売員、書店員、配送係、歩合のセールスマン、出版社の営業兼コンピュータ担当兼編集を経て、87年に独立。
 29歳で処女作『されど、わが祖国』を上梓、その後の主な著書として、『大学の冒険』『「松代大本営」の真実』『ご就職』『学問のヒント』『子どもが大事!』『少年リンチ殺人』など。軟派小説、悲喜劇番組の企画、ラジオ番組のパーソナリティも務める。死にかけたのは総計三回、失業も三回、うち倒産が一回。》
 部分的なプロフィールにすぎないのだが、読み手によっては、えらいこっちゃと思う方もおられるかもしれない。これは編集者の手によってピックアップされたものだ。本人が書いた単行本を読めば、以上のような”経歴”を摘出することは比較的容易である。つまり彼は、全然有名でないくせに、よく自分を語っているということになる。

(注:当該書籍は1997年『情報の技術』を改題・文庫化したものである。引用した解説部分は日垣氏自身によって書かれたものである)

サイエンス・サイトーク いのちを守る安全学(新潮OH!文庫, 2001/03)
http://www.amazon.co.jp/dp/4102900802

21~23ページ(刷数不明 2001年3月10日発行)より

日垣 美しい話にも見えますが、あえてきつい言い方をすると、自分の子どもが殺されたときに思い切り泣けずに、いつ泣くのかっていう無念な気もします。私の父母が弟(父親にとっては息子)を喪ったときもそうでした。号泣してくれたほうが、お互いどんなに楽だったか。
(中略)
 先ほどちょっと触れたように私自身も中学生だった弟を殺されています。同じ中学に通っていましたから、何が起きたかということはよく知っているのですけれど、相手が(刑法や少年法でも罪を問えない)十三歳でしたから、何もなかったこと(あたかも勝手に死んだよう)になって、結局それからずっと、そのことをどういうふうに総括していいか不明のままです。

26ページ(刷数不明 2001年3月10日発行)より

日垣 うちの母親もそうでした。私の弟が、布団の上ではなく、コンクリートに頭を打ちつけられて意識を失っていったことを思うと、そういう感情が湧き出てしまうのでしょう。

36~37ページ(刷数不明 2001年3月10日発行)より

日垣 あの、ちょっと自分のことで今思い出したことがあります。弟が殺されて結局“学校事故”っていうことで処理されたのですけど、葬式などがあって十日間くらいしてから、ようやく僕は学校に行くんですね。クラスメートも、どうやって声をかけていいのかわからなかったみたい。十日ぶりで登校した日に、確率統計に関する数学の授業があって、教科担任は一人ずつ順番に兄弟姉妹の数をいわせたんですよ、全員にね。「三人です」とか「一人です」とかって答えさせていく。その数学の先生は、十日前に俺の弟が殺されていることは百も二百も承知なわけです。承知しているどころか、弟の事件で教育委員会へ虚偽の報告をしていた責任者が、まさにその数学の担任だった。俺としてはそいつの顔を見ながら授業を受けているだけで、十年分のエネルギーを使い果たしているって感じです。僕は四人兄弟だったのですが、十日前に弟が殺されている。順番が近づくにつれ、教室から逃げ出せないかって。汗もびっしょりかいちゃって。でも、順番が回ってきた。俺のなかでは立派に弟は生きていたので「四人です」って答えたら、「お前のとこ、三人になったじゃないか」って、その数学の先生にいわれて、ちょっと僕はそれからしばらく放心状態になってしまった時期がありました。毎朝、親が悲しむから家は出るんだけど、繁華街のゲームセンターかなんかに本物の悪友と行ってました。本当のことをいうと、今でも親しいその悪友が気を紛らわせてくれたおかげで、犯人や教師を殺さずに済んだんですけどね。
 クラスメートはクラスメートで、生徒会の呼びかけかなんかあったらしくて、亡くなった弟のために、カンパをやるなんていってくれたのはまあいいとして、全然集まらない。せいぜい何百円とか入ったまま、カンパ袋が学校中にヒラヒラ揺れているわけ。今でも夢に見ますよ。

小西 今のお話で、しばらく言葉を失っておりました。

日垣 小西さんの言葉に触発されて思い出しただけなんですよ。

死の準備(新書y, 2001/7)
http://www.amazon.co.jp/dp/489691547X
141ページ(初版 2001/7/21発行) より

これが最後になるかもしれない――。
そう思ったのは、十五歳のときだ。二歳下の弟が殺され、突然、帰らぬ人となった。その前夜、珍しく他の家族が外出していた。弟と俺が二人で料理をつくり、それが最後の晩餐になってしまった。本当にお恥ずかしい話だが、あれ以来、俺は料理をまともに作れない。君たちから誘われてのトランプ・ゲームを断ったことがほとんどないのも、あのとき、弟に誘われて「明日にしよう」と言ってしまって以来のことだ。
 トラウマというほどのものではない。いつでも克服できるし、未だに何かを恐れているわけでもない。だが、弟を殺した者たちに対する殺意は、ごく最近まで非常に強烈にあった。
(中略)
 さて、ここで「伯父さん」の話に戻す。二〇歳の冬の火事より二年前、弟が殺されて三年後のの真夜中、兄が発狂した。
「隠しカメラがある!」
 兄はそう叫び、俺を起こした。
「僕は天皇の隠し子だよね」と何度も確認をし、弟である十八歳の俺は比較的冷静に両親への報告をしにいった。翌日から兄は閉鎖病棟に入院し、それは四半世紀が経った今も基本的に変わらない。

2002年

敢闘言―さらば偽善者たち(文春文庫, 2002/4)

129ページ(第1刷)1995.1.10 命を奪われない限りにおいて より

 私は中学三年生のとき二つ下の弟を殺され、以来、正直に告白すれば、弟を殺した者たちに殺意を抱いてきた。彼らを許す気になるまで一〇年以上かかった。
 成人してから大病を患い、薬の副作用なのか寝小便をたれ、私は真剣に自死を思ったことがある。そのさい防波堤になってくれた二人がいる。
(略)
もう一人は亡き弟である。子どもに先立たれた親を間近に見て、これほどの親不孝はないと肝に銘じざるをえなかった。この体験を私は一度だけ文章にしたことがあり、『日本人が変わった』(毎日新聞社)に収録されている。
(略)
事故発生時だけ学校バッシングに励むのは、子どもの管理強化に手を貸す道なのだ。

(注:1999年『敢闘言』(単行本)から記述に変化なし)

300ページ(第1刷)1997.7.15 人は残虐な一面をもっている より

他人様はどうだか知らないが、少なくとも私は殺意を抱いた瞬間が何度かあるし、中三の夏、弟を殺した者たちへの復讐を実行しても二年程度で出これるのではないかと考えたことも実際ある。

(注:1999年『敢闘言』(単行本)から青字部分の誤字が修正されている)

2003年
飯田高等学校生徒刺殺事件検証委員会 教育関係者との懇談会 会議録要旨(2003/3/25)
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/koko/goannai/shingikai/iinkai-shuryo/jiken/documents/giji11-1.pdf
2ページより
日垣委員
日垣隆といいます。ジャーナリストをしています。家族は長野県に住んでおりまして、県内の高校から大学に進学している娘と、今年高校を卒業し大学に入学する子と、中学を卒業して高校に入学する末子がいる父親でもあります。また私自身、中学生の時、学校事故で弟を亡くした体験を持っています。ですから教育問題や学校事故の問題については、とりわけ関心を持って取り組んで参りました。親としては、学力を付けるとか、部活を頑張って欲しいとか思う以上に、学校で安全に過ごして欲しいと考えています。この委員会には被害者である小野寺さん、そして教育委員会からも委員が加わると聞き、私も委員となる決心をいたしました。宜しくお願いいたします。

そして殺人者は野に放たれる(新潮社, 2003/12/17)
http://www.amazon.co.jp/dp/4104648019/
251ページ(刷数不明。2003/12/20発行) あとがき より

 私の弟は理不尽に殺され、兄は長く精神分裂病に罹患したままです。もちろん、こうした経験があったからこの本がかけた、ということはないと思います。
 ただ一〇年ほど前、「入院仲間がときどき人を殺したくなると言っている」と兄が私に話してくれたことがあり、そのとき、ああこの問題から逃げてはいけない、と自覚したのは確かです。
 犯罪や事故で遺族になった体験は、少なくとも、あらゆる事件取材を通じて被害者の存在を無視しない、という厳格な縛りをもたらしてくれたことだけは疑いありません。これは当然もつべき視点ではありますが、これまで日本の書き手は、ノンフィクションでもフィクションでも、ひたすら犯人側の「動機」に寄り添うのが常で、被害者や遺族に襲いかかる喪失感や理不尽さを描くことは、まずありませんでした。

 加えて一面的な”人権”意識から、この問題を安易にタブー視してしまうという悪循環が、これまで日本のマスコミ界にあったように思います。被害者遺族としての実体験と、身内に精神障害者がいる、という二つの事実を、私の中で何とか統一できたらと願いながら長い調査と取材を続けてきました。
2006年

急がば疑え!(日本実業出版社, 2006/1/31)
http://www.amazon.co.jp/dp/4534040245

66ページ(初版) 犬とネコを飼う より

 中学時代、私の弟が殺されたとき、母も仔犬をもらってきた。

188ページ(初版) 携帯と犯罪と道草 より

もちろん、子どもの命が突然奪われることほど切ない事件はない。最近、私は父を喪ったが、順番どおりなので動じなかった。けれども、13歳の弟を殺された喪失感は、今でもまったく薄れることはない。

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫, 2006/10)
http://www.amazon.co.jp/dp/4101300518/
301~302ページ(3刷) あとがき より

(注:2003年『そして殺人者は野に放たれる』から記述に変更なし)

2007年

個人的な愛国心(角川書店, 2007/01)
http://www.amazon.co.jp/dp/4047100803
122ページ(初版)より

私の弟は一三歳で殺され、兄は二〇歳から精神病をわずらい今も入院を続けている。兄弟喧嘩など、したくても、できない。

誤謬 ウツ病患者諸兄、「空気を読む」のを止めて「空気を抜こう」
http://opac.ndl.go.jp/articleid/8947680/jpn
SAPIO(小学館) 2007年10月24日号 72ページより

 初めてウツ病の発症を身近で見たのは、父である。私が高校1年生だったから、いま指折り数えてみると、そのころの父は現在の私と同い年だ。その1年前、次男(私にとっては弟)が他人に殺され、帰らぬ人となった。
 何の罪もない中学生が突然殺される。それほど理不尽なことはない。ウツにならないほうがどうかしている。

(注:弟のことを「次男」としているが、日垣氏には兄がいる。正しくは「三男」であるはずである)

2008年

売文生活日記 どっからでもかかって来い!(第37回)四〇年日記 の巻
http://opac.ndl.go.jp/articleid/9317917/jpn
WiLL(ワック) 2008年2月号 121ページより

 中学三年生の夏、弟を殺された高校三年生の、兄が発狂した。弟は医者になりたいと願っており、兄は弁護士になりたいと思っていた。私は革命家かスパイか首相になりたかった。アホだったのである。

(注:他の記述では「兄が発狂した」という時期がとされているが、この記述のみ、になっている)

2009年
裁判官に気をつけろ!(文春文庫, 2009/6/10)
http://www.amazon.co.jp/dp/4167655071/
序章 裁判員制度を笑う(七) 22~23ページ(第1刷)より
私が初めて裁判を傍聴したのは一九七五年、高校一年生のときでした。少年事件で亡くなった弟の裁判です。少年事件は被害者にも非公開なので傍聴できないのですが、両親が損害賠償を求める民事裁判を起こしたので、そこについて行って傍聴席にいました。

(注:当該書籍は2003年の『裁判官に気をつけろ!』の文庫化である。引用元である序章は文庫本のみの収録であり、単行本にはない)
怒りは正しく晴らすと疲れるけれど(ワック, 2009/8/4)
http://www.amazon.co.jp/dp/4898311334/
269~270ページ(初版)より

(注:初出(「WiLL」2008年2月号 )から記述に変更なし)

戦場取材では食えなかったけれど(幻冬舎新書, 2009/11/30)
http://www.amazon.co.jp/dp/4344981510/
28~29ページ(第1刷) 序章 戦場に行かなかった父から子へ より

(注:『死の準備』の再収録であり、記述には改行位置・字下げ以外の変更はない)

2010年

少年リンチ殺人―ムカついたから、やっただけ―《増補改訂版》(新潮文庫, 2010/1/28)
http://www.amazon.co.jp/dp/4101300526/

214ページ(刷数不明。2010/2/1発行) 第一部 第五章 終わりなき喪 当事者 より
223~224ページ(刷数不明。2010/2/1発行) 第一部 終章 知られざるまま 弟 より

(注:共に1999年『少年リンチ殺人』から記述に変更なし)

2011年

電子書籍を日本一売ってみたけれど、やっぱり紙の本が好き。(講談社, 2011/4/28)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062169630/

177ページ(第1刷) 中篇 「滅びゆくモノ」たちを思考整理する 終わらぬ加害 より

 TBS社員から私に直接送られたメールもあった。
《お前はキチガイだ。弟が殺されて発狂して未だに精神病院に入院している兄のお隣のベッドに、お前も入院して、ずっと寝てろ。》
 名前もアドレスも特定できた。以前にTBSディレクターとしてメールを何度かもらったことがある正真正銘の社員だ。
 私は、返答した。
《TBSの一部暴言大好きな方々へ。想像してみてほしい。私の弟は中1の夏に殺されました。衝撃で兄が心の均衡を崩して入院し、今に至ります。父も母も数年に亘り、身体を壊しました。当時十代の私は、毎日泣きながらも、自分は鈍感なのか、と苦しんだ。凶悪犯罪は被害者家庭を崩壊させるのですよ》と――。
221ページ(第1刷) 後篇「生き残るコツ」を思考整理する 天敵 より
 とりわけ、弟を中学で殺されて以来、私も他の(当時の)家族も、数年間は全く笑わなくなった。
 生き残った者が楽しく生きようとすることに、抵抗感が出る。おいしいものにも、手を出しにくい。
 他殺であってさえ、遺族が理不尽な「罪悪感」を抱く事実は、理解していただければと思う。
東北関東大震災2000キロの旅 見えない敵と、見えざる敵と。
http://opac.ndl.go.jp/articleid/11036409/jpn
新潮45 2011年5月号 97ページより
 妹一家を訪ねた。家が消えていた。
「心配するから言えなかった」。変わらぬ明るい笑顔で、そう言われた。
情報への作法(講談社+α文庫, 2011/9/20)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062814331
266ページ(第1刷) 第14章 六法よりも奇なり より

 私にとって、二十代で経験した三度の失業など、十代で耐えねばならなかった弟の死や、その事件を巡って裁判を両親が起こしたという身近な出来事もあってか、法曹界をめざすようになった兄が二十歳で精神分裂病を発症しまだ治癒せぬこと、などに比べれば全然どうということはなかった。

(注:当該書籍は1997年『情報の技術』を改題・再文庫化したものである。なお、この引用部には『情報の技術』から記述が変わっている箇所があるが、前回の改題・文庫化である『情報系 これがニュースだ』からは記述は変わっていない)

つながる読書術(講談社現代新書, 2011/11/18)
http://www.amazon.co.jp/dp/4062881330/
33ページ(第1刷)より

 私自身が「本読み競争」に参加したのは高校三年の三月からです。それまで書店で本を買ったこともなく、本好きの姉にバカにされていました。

第三者による記述

以下は、日垣氏以外の第三者による記述である。一般読者によるブログ等での投稿は多数あるが、ここではジャーナリストや出版関係者等によるもののみとりあげる。

柳美里氏

第三回 新潮ドキュメント賞発表 受賞作 日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』,山本譲司『獄窓記』
http://opac.ndl.go.jp/articleid/7083169/jpn

<あとがき>の「私の弟は理不尽に殺され、兄は長く精神分裂病に羅漢したままです。(中略)二つの事実を、私の中で何とか統一できたらと願いながら長い調査と取材を続けてきました」という箇所を読んで、欲深で非情な読者である私は、自身の「統一」は打ち棄て、「着地」を目指すことなく、手に握りしめた刃物の光だけを頼りに、自身の「闇」にさらに分け入ってほしい、日垣隆氏には、その動機と勇気と覚悟があるのだから、と思った。

花田紀凱氏
何でも学校のせいにするに人権ママ(中略)など小気味いい文章でバッサリ。
http://www.bk1.jp/review/0000008521
ことに第3章「少年にも死刑を」は御自身、仲の良い弟さんを13歳の少年に殺されたという辛い体験を経ているだけに力がこもっている。
藤井誠二氏
平成21年度「犯罪被害者週間」国民のつどい 実施報告 沖縄大会基調講演「犯罪被害に遭うということ」
http://www8.cao.go.jp/hanzai/kou-kei/houkoku_h21/okinawa_giji_kouen.html
私、藤井誠二と、私の先輩の日垣隆さん。日垣さんは、弟さんが殺された方です。お兄さんが精神障害者の方で、例えば『そして殺人者は野に放たれる』という、日本で最初に精神障害者で人を殺しても無罪になってしまうという問題点をあぶり出した、私の先輩ジャーナリストです。それから、先日、がんで亡くなってしまった黒沼克史さん。彼が『少年にわが子を殺された親たち』という本を書いて、少年犯罪被害者の問題を日本に最初に提示したジャーナリストです。この方も先輩です。
藤井誠二氏・宮崎哲弥氏
『少年をいかに罰するか』(講談社+α文庫, 2007/9/20)
http://www.amazon.co.jp/dp/406281143X
412ページ(第1刷) 第三章 被害者と報道 より
(3)日垣隆氏 一九五八年、長野県生まれ。東北大学法学部卒業。作家、ジャーナリスト。『<検証>大学の冒険』『偽善系』『少年リンチ殺人』など著書多数。みずからもかつて一三歳の弟を少年に殺されている。
加藤幸雄氏
『日本福祉大学社会福祉論集』第106号2002年2月 被害者感情と非行臨床
http://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/koko/goannai/shingikai/iinkai-shuryo/jiken/documents/giji11-1.pdf
日垣隆 (1999) のルポルタージュは, 著者自らも弟を殺された経験を持ち, 被害者に共感的に接近できる立場から, 「被害者」 の心情等を伝えている.
高原剛一郎氏
「魂のルーツとの再会」
http://biblegospel.org/zen2/z568.html
日垣さんが中学生の時、同じ中学に通っていた仲良しの弟が、何の意味もなく殺され、直接手を下した者が当時13歳であったために、少年院はおろか教護院にすら入ることなく、事件の翌日から学校に登校して来たっていうんです。彼は周囲には何も知られず、いつも通りに笑っています。弟を殺しておいて何一つ罰を受けることなく、平然と暮らしてる姿に日垣さんは猛烈な怒りを感じるのですが、実はそれ以上に耐えがたいことが一つあったと言うのです。それは犯罪そのものをなかったことにするために、弟が初めからいなかった人のように扱われたということです。
大石英司氏
日垣隆をワッチし、告発するサイト
http://www.ne.jp/asahi/eiji/home/main/200306higaki.htm
そして彼はまた、少年時代、ご兄弟を学校の中で殺されるという不幸な過去をお持ちの人でもあります。そういうご自分の体験もあり、数年前、飯田高校内で発生した刺殺事件の検証委員会のメンバーを務めることになります。ご本人曰く、それは「ボランティア」ということでした。
奥秋昌夫氏
丸実生自殺、変り者扱いの県教委
http://blog.goo.ne.jp/tuigeki/e/933b971a51583b9897611f82f5c8dc48
日垣隆は飯田高校殺人事件検証委員会の委員で、実質的に委員会を仕切り、被告席に座らされた関係者をいいように怒鳴り上げていた。日垣は中学生時代に自分の弟が学校側の不注意で死亡した私憤を委員会を利用してぶちまけただけではなかったのか。

グリーン料金不正受給疑惑

この問題は、日垣隆氏が地元・長野県の飯田高等学校生徒刺殺事件検証委員を務め、長野県庁や長野県松本市で開かれた集まりに出席する際に自宅のある長野市からの交通費ではなく、事務所のある都内からの交通費をグリーン料金で受け取っていたという問題である。

この問題について触れている記事をいくつか紹介する。なおこの問題については信濃毎日新聞が2004年10月5日に記事にしており、最初のブログ記事でそれを読むことができる。

9月議会で日垣隆の"交通費ちょろまかし問題"が
http://blog.livedoor.jp/tuigeki/archives/8323112.html

な、なんと日垣氏が県委員会出席に"遠回り"
http://blog.livedoor.jp/tuigeki/archives/51035826.html

日垣隆、グリーン車代請求事件の顛末 2004年2月20日更新
http://www.ne.jp/asahi/eiji/home/main/200306higaki.htm#20040220
(文字コードの問題により一部ブラウザでは表示できない)

なお、信濃毎日新聞の記事によると、日垣氏は途中(7回目以降)から委員報酬を返却し、グリーン料金として交通費を受け取ったとのことである。交通費より委員報酬の方が高いため、どうしてそのようなことをしたのかわからない方もいるかもしれない。日垣氏は委員報酬を受け取った場合、その収入には所得税など税金がかかるが、交通費ならば経費として精算できるため、交通費として受け取った方が税金対策になりメリットがあると考えたとすると、合理的に説明できる。

公文書有料配信問題

この問題は、日垣隆氏が自身の発行する有料メールマガジンで、自身が委員を務める「飯田高等学校生徒刺殺事件検証委員会」の議事録を配信したという問題である。
この議事録は長野県のWebサイトで無料で公開されているものであった。それを有料のメールマガジンの記事として配信したことを問題視する記事がいくつかあったので、それらを紹介する。なお、この頃日垣氏はイラクに取材旅行に出かけていた。

日垣隆氏の有料メルマガに抗議
http://blog.yuco.net/2003/05/higaki_mailmag/

日垣隆氏の有料メルマガ (2)
http://blog.yuco.net/2003/06/higaki_mailmag_02/

「飯田高校殺人事件検証委員会」驚き!県HPで公開されている”タダ”の会議録を値段つけて売る、日垣検証委員
http://melma.com/backnumber_60168_1930243/

日垣隆が議事録パクって詐欺まがい商売
http://www.asyura.com/0304/bd26/msg/295.html


以下のページは文字コードの問題により一部ブラウザでは表示できない。なお、最初の記事にはこの問題に対する日垣氏からの「お詫び」が引用されている。

日垣隆、公文書有料配信事件を追う
http://www.ne.jp/asahi/eiji/home/main/200306higaki.htm#20030603

飯田高校生徒刺殺事件検証委員会 副委員長日垣隆の有料メールマガジンでの委員会議事録配布について。
http://page.freett.com/iwana/higaki.files/higakikeii.htm

「何が問題なの?」
http://page.freett.com/iwana/higaki.files/higakiqanda2.htm

日垣メルマガ右往左往
http://page.freett.com/iwana/higaki.files/higakigfighter.htm

ヒグマ、県教委に赴く。
http://page.freett.com/iwana/higaki.files/higakikenkyoui.htm

日垣隆発言(記事)検証
http://page.freett.com/iwana/higaki.files/higakihatugen.htm


2ちゃんねるでは日垣隆スレッド4のレス452以降(2003/05/22~)でこの話題が登場している。

【メルマガ詐欺】日垣隆・統合失調スレ★4
http://mimizun.com/log/2ch/books/1051707185/452-

これ以降のスレッドは過去ログ集から参照していただきたい。

有料メルマガ配信遅延問題

日垣隆氏は有料(月額830円、年間購読料1万円)でメールマガジンを発行しているが、その配信頻度が鈍くなることがしばしばある。無料時代は定期的に発行されていたのだが、有料化に際し当初は発行間隔や文章の量などを宣言したものの、有料化直後からその宣言通りに発行することができず、問題となった。
現在は発行頻度については《毎月数回以上の配信をいたします。 》という宣言があるのみだが、しばしば配信頻度が鈍くなる。

2002年(有料化直後)

有料化に際した宣言や、有料化直後の問題については以下のページを紹介する。

日垣メルマガ右往左往
http://page.freett.com/iwana/higaki.files/higakigfighter.htm
(文字コードの問題により一部ブラウザでは表示できません)

2009年

次に紹介する日垣氏公式ページにあるリストの通り、2009年はメールマガジンの発行頻度が他の年に比べて鈍い。特に8月には一号も配信されていない。

2009年のメルマガ目次
http://gfighter.net/00292009/index.php

この年には、次に紹介するブログ記事が書かれている。

日垣隆メルマガ「ガッキィファイター」解約
http://siopy.cocolog-nifty.com/sancha/2009/11/post-27c9.html

2011年

この頃、日垣氏はtwitterのヘビーユーザーであったが、次の記事にあるようにメールマガジンの読者からtwitterで直接抗議を受けている。

日垣隆氏メルマガ読者の嘆き(そして、ついに醜聞までも・・)
http://togetter.com/li/135453

また、次に紹介する日垣氏公式ページにあるリストの通り、383号~384号は枝番が多く、イベントの宣伝などがほとんどであった。

2011年のメルマガ目次
http://gfighter.net/003012011/index.php

ちなみにその前号の382号は「懸垂のみで三千字」の号である。

2012年

次に紹介する日垣氏公式ページにあるリストの通り、フィリピンへの語学留学が始まった4月以降、8月半ばまで発行頻度が鈍くなっている。

2012年のメルマガ目次
http://gfighter.net/003022012/index.php

助けを求めるメールに罵倒で返信疑惑

この問題は、飯田高等学校生徒刺殺事件検証委員会委員を務めていた日垣隆氏が、いじめを受けていた生徒(あるいはその母)から助けを求めるメールを受け取ったが、名前を書いていないことを理由に罵倒のメールを返信した、という疑惑である。

この件については以下のブログのみが情報源である。ブログを紹介するが、その信頼性を担保しないので、それは各自判断していただきたい。なお引用部分の「Yくん」「Y君」「Kさん」は原文では実名である。

カネ儲けライター日垣隆が自著で花岡氏に粘着し、ネタの二重売り(2007年08月30日18:50)
http://blog.livedoor.jp/tuigeki/archives/cat_50011592.html

Yくんは自殺する2ヵ月ほど前、日垣隆に助けを求めるメールを打ったのだが、日垣はそのメールに名前が書いてなかったことを激しく罵倒し、人にものを頼むのに名前も書いていないようなやつはろくなもんじゃない─といった内容のメールを返信して、それきっり知らん顔だという。

丸子実業一年生自殺、変り者扱いにした県教委(2005年12月09日07:37)
http://blog.livedoor.jp/tuigeki/archives/50359739.html

こういう問題のエキスパートといっていい日垣隆にもメールを打ったという。Kさんは沢山のメールを打っているので、日垣隆に出したメールに、つい自分の名前を書くのを忘れた。そうしたらえらい剣幕で日垣隆に怒られたという。人にものを頼むのに名前も書いてこないような奴はロクでもない奴だーと言われた。

Y君は「おかあさん、この人はダメだよ」と言ったという。

ただし、これらの記事には齟齬があるので、指摘しておく。後者(2005年)の記事ではメールを送ったのは母親ということになっているが、前者(2007年)の記事ではメールを送ったのがYくん自身であるかのような記述になっている。

サイエンス・サイトーク 放送内容リスト

サイエンス・サイトークとは、日垣隆氏がパーソナリティを務めていたTBSラジオの番組である。詳しくはWikipediaなどを参照していただきたい。

このリストを作ったのは、日垣隆氏公式サイトで販売しているサイエンス・サイトークを文字起こししたPDFには放送日が明記されていなかったためである。既に状況が変わっていたりするため、そのインタビューがいつごろ行われたものなのかは重要と考える。興味のある方は参考にしていただきたい。

このページを作るためには以下のページを参考にした。

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2010/02/07 石井直方 東京大学大学院教授/筋肉博士 正しいトレーニングを
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2010/01/24 春日武彦 精神科医 『こころの病』はほんとうに増えたのか
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2003/10/05 松井孝典 東京大学大学院教授 惑星科学/アストロバイオロジー 惑星科学者の誕生
 
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2003/03/16 本川達雄 東京工業大学教授 動物生理学 ゾウの時間 ネズミの時間 ヒトの時間
2003/03/09 岡田正彦 新潟大学大学院教授 予防医療 さらば遺伝子幻想
2003/03/02 岡田正彦 新潟大学大学院教授 予防医療 長生きの科学
2003/02/23 佐藤達哉 立命館大学助教授 頭の良さは測れるか
2003/02/16 佐藤達哉 立命館大学助教授 性格は変わるのか
2003/02/09 井上昌次郎 東京医科歯科大学名誉教授 よく眠るための科学
2003/02/02 中野不二男 ノンフィクション作家 科学音痴を抜け出そう
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2003/01/19 倉嶋厚 気象キャスター エッセイスト やまない雨はない
2003/01/12 小沢牧子 臨床心理学論 子供・家族論 カウンセラーは本当に必要か
2003/01/05 石井美智子 東京都立大学法学部教授 人工生殖の法律学
2002/12/29 小松正之 水産庁漁場資源課長 魚をめぐる争奪戦
2002/12/22 小松正之 水産庁漁場資源課長 鯨を食べよう!
2002/12/15 近藤誠 慶應義塾大学医学部講師 定期検診は本当に必要なのか
2002/12/08 近藤誠 慶應義塾大学医学部講師 がんで死ぬのは不幸なことか
2002/12/01 西垣通 東京大学情報学環教授 ネット社会の未来像
2002/11/24 西垣通 東京大学情報学環教授 コンピューターの現在・過去・未来
2002/11/17 佐々木宏夫 早稲田大学経営学部教授 人生の駆け引きについて
2002/11/10 橋本祐一 東京大学分子細胞生物学研究所教授 がんと闘う薬
2002/11/03 橋本祐一 東京大学分子細胞生物学研究所教授 いい薬とは何か
2002/10/27 唐津一 東海大学総合科学技術研究所教授 日本の技術力は捨てたものではない
2002/10/20 垣田達哉 消費者問題研究所 安全な食品とは
2002/10/13 垣田達哉 消費者問題研究所 消費者のだまし方
 
2002/03/31 竹原和彦 金沢大学医学部教授 アトピーと上手につきあう
2002/03/24 竹原和彦 金沢大学医学部教授 アトピーと上手につきあう
2002/03/17 西村和雄 京都大学教授 理論経済学 数学は役に立つのか
2002/03/10 西村和雄 京都大学教授 理論経済学 学力低下の構図
2002/03/03 辻秀一 スポーツドクター 内科医 学校スポーツにも構造改革を
2002/02/24 辻秀一 スポーツドクター 内科医 一流のスポーツ人になるには
2002/02/17 赤祖父俊一 アラスカ大学国際北極圏研究センター所長 定説をくつがえす
2002/02/10 赤祖父俊一 アラスカ大学国際北極圏研究センター所長 オーロラの真下で地球を考える
2002/02/03 新山陽子 京都大学大学院教授 農業経済学 狂牛病の教訓安全な食品確保のために
2002/01/27 新山陽子 京都大学大学院教授 農業経済学 農場から食卓まで、牛肉の流通を見直す
2002/01/20 小池和男 東海学園大学教授 労働経済学 「日本の競争力を高めるには
2002/01/13 小池和男 東海学園大学教授 労働経済学 失業率5%時代の経済学
2002/01/06 岸本裕史 教育士 元神戸市小学校教師 基礎学力を伸ばすには
2001/12/30 岸本裕史 教育士 元神戸市小学校教師 見える学力、見えない学力
2001/12/16 川村則行 国立精神・神経センター 狂牛病の背後にあるもの
2001/12/09 川村則行 国立精神・神経センター 日本人は牛とどうつきあってきたか
2001/11/18 馬場悠男 国立科学博物館人類研究部部長 東京大学大学院教授 日本人はどこから来たのか
2001/11/11 馬場悠男 国立科学博物館人類研究部部長/東京大学大学院教授 顔を科学する
2001/11/04 池谷裕二 東京大学薬学部助手 記憶力を高める2
2001/10/28 池谷裕二 東京大学薬学部助手 記憶力を高める
2001/10/14 久保田博南 ケイアンドケイジャパン代表取締役/サイエンスライター 生体の現象を測る
2001/10/07 久保田博南 ケイアンドケイジャパン代表取締役/サイエンスライター 人体は電気で動く